Facebookで投稿した、自分の業務に関する歴史について紹介
今回は初めての出張の思い出と、その後に初めて、配管設計で担当になったプロジェクト、宇宙開発事業団向け、LE-7燃焼試験設備に関する思い出。
始めての出張、大阪ガス、泉北第一工場
1986年、石川島播磨重工業、配管設計
少しづつ自分の歴史を見直していきたい。
写真関係はGoogle Earthからのものだし、固有名詞も特に守秘義務に当たらないところまで、記述していきたい。
1986年4月にIHI、石川島播磨重工業に入社し、LNG貯蔵設備の配管設計部に配属になった、その時に初めて出張したのが、大阪ガス泉北第一工場、LNG配管の改造工事のボーイング計測の仕事だった。
写真は初めて出張で泊まった、泉北臨海ホテル、そして今では全く面影のない大阪ガス泉北第一工場、受け入れ管だと思ったけど、その配管は未だに使っているかもしれない。
そして、その時の主務の配管設計担当が、実直で有名だった相生の武田さん。
おとなしい方だったが、本当に頑固で芯のある設計者だった。
また、入社時の直属の課長が鈴木護雄課長で、この人とはウマがあって、本当に可愛がってもらった。
入社して初めての配属紹介で新入社員としてある会議室に課員が集められた時に、なめられちゃいかんと思って、その時、一番トップの課長にガンを飛ばしたら、睨み返してきた、その迫力にはビビった。
それがこの課長との出会いでした。
しかし、その頃のIHIの課長って言ったら、今の部長ぐらいの偉さだったのに、新入社員が睨みつけるとは、我ながら何考えてんだか??
その課長はその後、事業部の人事政争に巻き込まれ、自分の大好きな配管設計から転籍を繰り返した。。これ以上は守秘義務かな。
(旧)宇宙開発事業団、LE-7エンジン燃焼試験設備、鹿児島県種子島
1986年~87年、石川島播磨重工業、配管設計
小生が’86年に石川島播磨重工業に入社し、初めて担当したプロジェクトである。
入社時の指導員である井田健二さんの下でこのプロジェクトの配管設計を行った。
このプロジェクトでも大失敗をし、今でも残る円形脱毛症(一時期治ったのだが、どうも慢性化してしまっている)になってしまった原因を作った。
このプロジェクトを担当した当時、配管設計はピークを極め、指導員である井田さんは全く、席に居ないと言ってよく、小生も任された仕事がどういう意味を持ち、その結果がどんな影響があるかということが、全くわからないまま設計をしていた。。ある時、主要配管の主要ポイントの座標を計算する仕事を任されたのだが、もちろん当時はCADなどではなく、手書きの図面なので、こちらも三角スケールと計算で求めて、その座標を1/1000の図面に記入した。
その後、多分、半年程度あとだったと思うが、現場より座標点と配管図面から作成した土木図面が1m合わない、と連絡が入る。。そしてこの時、小生が半年前に計算した図面の座標点が1㎜ズレていて、1/1000の図面の1㎜なので、現場で1mのズレとなって現れてしまったのだ。
その原因を探るべく毎晩、毎晩、残業し、その結果が分かったストレスで、円形脱毛症になってしまった。
しかし、今でも記憶あるが、当時のPMだった大野克夫さん、現場の皆さん、所長だった松田康夫さん、副所長の菊池さん、土木の責任者だった渋井さん、皆さん小生の大失敗を一言も責めることなく、プロジェクトの一つのイベントのように対応していただき、この失敗を収めてくれた。
小生もこの経験から、その数年後に建設部門に移るのだが、その際に、どんなに設計がミスをしても、そのことを責めるようなことはしない、という自分の決め事のようなことを持っていたのは、この時の経験が大きく影響あると思う(実際はまた別途述べる”師”の指導もある)。
この失敗の結末は、現地合わせの曲がり配管ピースがあってそのピースの角度を調整することによって、1mのズレを吸収した。。ただ、後に現場に行って、自分のそのミスの現場を自分の目で確かめて見たが、べースとなるコンクリートと基礎の立ち上がりのペデスタルとの芯の角度が違うので、遠目に見るとそのズレが鮮明に分かった。
今思えば、当時のNASDAのお客さんであった坂爪主任も大野PMの説明によく納得してくれ、小生のミスを許してくれたものである。。この設備の思い出はもう少し続けたい。
初めての設計業務
このプロジェクトは流石に入社直後のプロジェクトだったので、さまざまな経験がこのプロジェクトの中にあった。
業務での失敗、初めての現場経験、工事の短期派遣出張、長期宿泊に伴うさまざまな経験。
そして、その中でまず紹介したいのは、石川島播磨重工の体質的に良かった点である。
このプロジェクトでは小生の担当していたのは、ベント配管の熱応力計算、サブコンであったテイサンの図面レビュー、真空系の設計等があった。。その中で一番思い出深いのは真空系の設計である。
この設備は大きく分けて、ロケットエンジンの燃料となる液体水素系と液体酸素系に分かれていて、その液体水素の極低温を保冷する配管は真空断熱という構造となっている。
そして、仮にその真空断熱保冷配管の真空度が悪くなり、保冷性能が落ちてしまった際に、再度、真空性能を復活させるために真空引きを行うの系統が真空系となる、、構造としては真空ポンプ、真空配管と真空遮断弁との単純な構造となっている。
その設計をすべての機器の選択と購入、オペレーションマニュアルの作成までを行った。
しかしながら、もちろん今でもそうだが、このようなプロセスの設計を含めた設計を配管設計の新入社員に行わせるというのは、当時(現在もだろうが)、設計のビジネスルールから言ってあり得ないことなのである。
しかし、当時の指導員の井田さんやPMの大野さんが笠島が頑張っているんだからやらせてみるか、とそのビジネスルールの逸脱を黙認し、小生がすべての設計を行った。
そして、最近は少し変わったようだが、その頃、真空機材のほとんどが現在の「アルバック・日本真空技術」という会社が抑えていて、真空遮断弁は巨大な「ゲート弁」、真空ポンプは「油拡散ポンプ」というのが常識で、また、大変、高価だった。
しかし、その頃、さまざまな新規ベンダーが参画してきて、小生のところにも、いっぱい売り込みがあった。
そして、真空バルブは、通常のゲート弁の1/10以下のサイズの「フジ精機(現在、フジテクノロジー)」の真空バタフライバルブを選定し、真空ポンプはやはり、小型でコンパクトで機械的な、「大阪真空機器」製のターボ真空ポンプを選定した。
この選択は、その頃の常識を全く覆す選定であったが、全く、性能に差異はなく、扱いやすさや使いやすさの点から見たら、絶対的に優位だと確信していた。
そして、井田指導員、上司を含め、当時のプロジェクトチーム、それから、前回も書いた、NASDAの坂爪主任も新入社員のこのような奇抜な選択に、全く、なんの抵抗もなく、すんなり承認・決定され、納入に至ったものである。
そういうところが石川島播磨にはあった。
上下関係の厳しい建設部に移ってからは「既定路線」とか「慣習」のような上からの押し付けのようなものがあったが、設計部門は若かろうが、何だろうが、良いものは良いという風習のある会社だった。
ちなみに33年後の今、アルバックのウェブの製品紹介を見てみたが、彼らも昔は取り扱っていなかった、ターボポンプを主力に変えているようである。
フジ精機は大変、小さな会社だったので、その後、どうなったか気になっていたが、今でも真空バタフライバルブを主力で販売していて、安心した。
真空機材はその後、半導体産業の発展でビジネスを大きくしているだろうが、33年前には全くまだまだのビジネスであった。
自分がその時にそのような大胆な選択をできたというのは自分でも驚きだが、いままでの自分の仕事を振り返って見て、リスク判断とそのジャッジに対する確信と決めたら信じぬくという能力は、自分の最大の能力のようで、その後もさまざまなところで発揮されていて、その判断は、ほぼ、成功を収めている。。
自分を現場中毒させてしまった原因と言える出来事
この現場はもちろん初めてのプロジェクトなので、初めての現場滞在経験になる。
ここで経験したことは初めての社会人としてのいろいろな楽しみ方やリラックスの仕方も覚えたところでもある。
まず、昔の現場出張は大変良かったのは、現金の「仮払い」という制度があったことである。
初めて種子島の現場に出張した時の予定が確か、2週間ぐらいで、20万円ぐらい現金を仮払いされ、出張したのである。
多分、右の写真にあるキク旅館に泊まったと思うのだが、初めての日に宿のおかみさんが、そんな大金を持っていると危ないから、預かってあげる、と言われて、手元に少しのお金を残し、大部分の金額を預けた。
そして、前にも書いたが、現場の方々は本当に暖かく迎えてくれたので、皆さんといろんな所に飲みに行った。
その中でも覚えているのが、もう、名前は忘れたがフィリピンの女性がいるカラオケで、そこは全くいかがわしいところはないお店で、2次会で皆と一緒に行った記憶がある。
そして、そこで自分が痛切に感じたのは、自分が英語が全くしゃべれず、フィリピンの女性とコミュニケーションができなかったことで、しかし、現場の皆さんは、ほとんどの方がキチンと英語を喋れていて、「社会人になったら、英語って喋れないとダメなんだなぁ」と痛切に感じたものである。
というわけで、その店は皆さんと一緒に行かない限り、自分一人では行けなかったような記憶がある。
その代わりに一人でよく言ったのは、これは今でも名前を憶えている、「スナック マミ」。バツイチの小さなママがやっていたような記憶がある。
平日は流石に早く帰ったという記憶があるが、土曜日になると一人で行き、閉店の2時ぐらいまでいて、フラフラ歩きながら旅館に帰った記憶がある。
そして、ロケットの打ち上げが近くなると、お客さんが多くなるので、旅館は相部屋にされてしまうのだが、その時に相部屋になったのが、IPCの宇田監督、現場では全く笑わず、いつも難しい顔をしている一匹狼のような典型的な現場の監督だった。
これには一つ理由があって、昔はIHIのプラントの建設工事は石川島タンク建設が管理するITC管理工事と石川島プラント建設が管理するIPC管理工事と2種類があって、どちらかの会社がメインの下請けになって建設管理を行っていた。
そして、種子島の現場はITC管理工事で、電気計装工事はIPCに発注が通例なので、宇田監督はIPCの所属でITC管理工事の中で働いていたので、ある意味よそ者のような意識もあったのであろう。
(しかし、その後、20年ぐらい経って、そのITCとIPCも合併するのだが。。)ということで、小生も宇田監督と同室ということで、少しナーバスになっていたのだが、夜は遊びに行きたい、で、「宇田さん、すみません、今晩、遊んできますので、先に寝ていてください、静かに帰ってきますから。。」と言って、3日のうち2日(1日は行かない、と決めていたのである!!)は夜、出かけて行った。
そして、確か、12時には帰ったと思うが、部屋にこっそり入っていくと、必ず宇田さんが「おお、帰ってきたか。」と優しく声をかけてくれた。
「すみません、すみません」というが、宇田さんは全くに気にしない風で、寝てしまう。。気難しく見えたが、本当にいい人だな~といつも思っていた、しかし、それに懲りず、毎晩のように飲みには出かける懲りない男である。
東京に着いた時には数千円も残っていなかっら記憶がある。
そして、宿代の支払いは東京から旅館に振り込んだ。
この頃から、そういう下地ができてきたのである。
そして、そんな遊び方である、3日に1回、旅館に預けていたお金を引き出し、帰る日には仮払いを受けたお金なんかまったくなくなり、帰りの空港までのタクシー代と東京着いてからの交通費だけを残し帰ってきた。
でも、種子島で遊泳禁止と知らず海岸貸し切りで泳いだことと、その時に毎日、その頃、買ったばかりのSONYのCDプレーヤーで聞いていた、サザンオールスターズの「海」は種子島の海のイメージにピッタリで一生忘れられない。。
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