海外の赴任でのいろいろ(インドネシア赴任 パート1)

インドネシア

S社向 酢酸エチルプラント建設工事、初海外本格的赴任

現場着任!!

S社 酢酸エチルプラント

S者向けの酢酸エチルプラント工事は、1998年4月に本格的に現場がスタートし、順番にサイトに赴任になった。
先行して、土木関係のサブコンが乗り込み、所長とアドミ、機械監督の3人がまずは乗り込み、小生も第2弾の乗り込み者として、4月上旬には乗り込み、今まで、ジャカルタの綺麗なホテルに宿泊していた出張から、サイトの近くのセキュリティー付きアパートに住みこむことになった。

初めての海外でのアパート暮らしは衛生面等、戸惑うこと多く、当初は不安感がいっぱいだったが、2,3日すると慣れてしまい、次第に順応していった、こういう点でも小生の海外生活向きという個性があったのだろう。

その頃のインドネシアはスハルト政権の末期で、政情が日に日に不安定に行く中、土木工事を中心として、着々と工事が進んでいき、いよいよ機械工事も着工となり、毎日、仕事一色の生活になってきていた。

海外工事でのアドミニストレーションの大切さ

そういう海外工事の生活は、ほとんど宿舎とサイトの往復の毎日の生活で、国内工事と違って、海外工事のアドミストレーションという直接、業務とは関係ない働く人たちの生活環境を整えるための業務が必要になって来る。

このアドミ業務というのは、

  • 宿舎の手配、運営
  • その国での労働許可・滞在許可に関する管理
  • 出張者の入出国の管理、送り迎えの手配
  • 資金の管理・現金管理・日当、手当支払い
  • 現地雇用管理、ドライバーのアレンジ管理、現地人の雇用条件のネゴ
  • 出張者・派遣者の健康管理、派遣者が病気の際、通院の助勢、医者との意思疎通
  • 現地におけるトラブル処理
  • 外食・休暇時のエンターテイメントのアレンジ
  • 等々、直接業務に関係ないことは全てアドミさんに、その処理が回って来る

上記のようにアドミさんの仕事は、逆に誰でもできるような仕事ではなく、本当に全てに気が回る人でないとその仕事はできず、小生の意見では現地所長なんかよりよっぽど重要な仕事だと思っている。

特に労働者の健康管理は体調のみならず、精神面等のケアも含め、さまざまな視点でケアしなければならない。
また逆に海外に来ることによって、知らず知らず、その地の法律や慣習を破ってしまったり、問題を生じてしまう、そのようなことを事前に派遣者や出張者に対し、教育・通達することもアドミさんの重要な仕事になる。

レストランやカラオケのような娯楽施設でのふるまい方

出張時に現地の駐在事務所の所長に連れていかれた、ジャカルタのレストランやカラオケでは、先のブログに書いたようにY所長はジャカルタでの危機管理に関して教育してくれた。

そして、98年4月に赴任後、初めて機械のサブコンの皆さんとウチの会社のメンバーで、食事、カラオケと行ったとき、もちろんサブコンのアドミさんがそういう場をセットしてくれ、小生たちを歓迎してくれた。

そのアドミさんは既にインドネシアのさまざまな現場をご経験されていたベテラン中のベテランであって、そして、ウチの会社はインドネシアにおける建設現場経験、そして、その中で重要なアドミ業務に関しては無に等しい状態だったので、このアドミさんなら信頼できる、ということもそのサブコンを選定した一つの理由になっていた。

支払い

食事やカラオケといった楽しい時間は過ぎ、さて支払いの段階になった時に、サブコンのご招待という事で、ベテランのアドミさんがお金の支払うという時、

「〇〇さん、良く覚えておくと良い、このお金を今、店員さんに払ったよね、彼らは腹の中で笑っているんだよ、だって、彼らにしてみれば、その一晩で私たちが使ったお金の額は、彼らの1か月分の生活できる金額と同じなんだ、そんなお金を一晩で使うのは「なんと、愚かなことだ。」って笑われているんですよ。そう肝に銘じて、これからインドネシアで暮らしてくださいね。」

と、結構、きつく指導してくれた。

ウチの会社のサブコンなので、そんなことを彼が元請け(ウチの会社)の若手に指導するような義理や責任は、全くないが、今でもその指導があったおかげで、小生も長い間、海外生活を続けてこれたと、今でも確信している。

インドネシアでの生活

ゴルフ!ゴルフ!ゴルフ狂!!

インドネシアに着任し、もう一つ娯楽を覚えた。

これは今でもトレーニング・ボディビルディング以外での唯一の趣味と言える”ゴルフ”である。

幸いなことに、宿舎から車で10分のところに、クラカタウ・ゴルフコースというのがあり、そこにはいわゆる「打ちっぱなし」という練習設備もあり、サブコンの皆さんも楽しんでいるということから、

せっかくだから始めよう!!

クラカタウ・ゴルフコース

ということになり、ウチのメンバーはほとんど素人だったが、ゴルフを始めることにした。

もちろん小生も日本の現場にいたときに、友人から5万円で買った中古のクラブをインドネシアにもっていき、初めてクラブを振って、まずは練習場に行った。

しかし、しばらくすると、サブコンの皆さんやウチの会社のゴルフ経験者から、

練習より実践だよ。

と言われるし、コースも格安で楽しめるということで、練習もそこそこ、コースにでることになった。

もちろん、あっちいったり、こっち行ったりしたが、田舎のコースである、楽しく楽しく初めてのコースも終わることができた、スコアは150ぐらいだったかな??でも、楽しめたことは間違いなく、そうすると、ゴルフに対する情熱はますますヒートアップするものである。
ましてやゴルフ以外、娯楽もない。
もう、会社を終えると、毎日、ゴルフの練習場にみんな(確か全員だった記憶ある)で行き、練習し、毎週の日曜日のコースでのスコアアップを楽しみにしていた。

このクラカタウのゴルフコースはキャディーが男性で、ましてみんなプロの候補生のような若いインドネシア人。

そして、初めて行ったときに付いたキャディーが毎週行っても専属キャディーのようになる。

こっちは素人、キャディーがすべてのゴルフのイロハを教えてくれた。

まず教えてくれたことは、「5番アイアンだけ振ってな、余計な事考えるな!」だ、確かに一つのクラブだけを振っていると、段々前に飛ぶようになってくる。

クラカタウ・ゴルフコース(上がりホールにあるレストランから撮った写真)

しばらくして慣れてきて、少しまともになってくると、キャディーは「7番使えよ」とか、「ピッチング使えよ」とか言うようになってくる。

そうすると、自分も何かわかってきたような感じになって、ここは池越え、7番かな、なんて生意気にも考えるようになった。

こっちは客だ、キャディーを使おう!と「7番!」とか言うと、「5番にしとけよ」とキャディーは言ってくる、「7番!」と再度、エバって言ってみる。

キャディーはもちろん、お客である小生が怒ったり、ゴネたらもらえるものがもらえなくなるのは分かっているので、「Ok」と言いながら、7番を渡す。

ヒット、池ポチャ。

そうすると、キャディーは「ホレ、見た事か。」という顔をしている。

こっちはカチンとくるが、生まれたとき(ゴルフを始めたとき)から面倒を見ている、親(キャディー)に逆らえないということが痛いほど分かり、それ以来、親(キャディー)の言うことは聞くようにした。

その後、近場のクラカタウばかりでなく、今ではない、タカラ・ゴルフコース、ポンドック・インダゴルフコース、モデルン・ゴルフコースなどなど、さまざまなジャカルタ近傍のゴルフコースに行ったものである。

週末にゴルフ三昧ができたのは、先に書いた政情不安が招いた生活面の変化もあった、そのことはまたの機会のネタに書きたい。

宗教に対する思い出

インドネシアの朝は早い。

赤道直下なのでほとんど、毎日の明るい時間、暗くなる時間の差がなかった。

このことはもちろん、季節の変わり目とかの感覚がなく、マレーシアに出張していた時から、出張者が、春夏秋冬のない気候に嫌気がさす、と言っていた人が多かった。

しかし、小生はそういう季節感のないことで不満は全くなかった、逆に日本の冬の季節に常夏の国から、極寒の日本に帰ることが嫌なくらいだった。

そして、インドネシアの人々は朝が早い。

これはほとんどのインドネシアの人々はムスレムということが理由である。

宿舎のあったチレゴンの町

モスレムの人々は朝4時にお祈りがあり、お祈りのくだりがスピーカーから大音量で流れてくる。

ジャカルタでホテルに泊まっていたときは、ホテルの遮音設備が良かったのか、そんなに気にならなかったのだが、サイトの近くの町の宿舎のアパートではスピーカーのあるモスク(モスレムの教会)から流れる大音量で、起こされてしまい、日本人全員が悩まされた。

小生の同室だった、N品管は、もう憔悴するほど悩んでいて、「Kやん、ダメだよ」と本当に悩んでいた。

相変わらず、小生は数日たつと耳栓などいらなくなり、ぐっすり寝れるように慣れてしまった。

しかし、同室のN品管は帰国の最後まで慣れず、毎日、JALの飛行機の中で得た耳栓を毎晩使用していた。

インドネシアのスタッフとの食事会

ムスレムの生活習慣・禁忌とは、

  • 礼拝を1日、5回する。
  • 左手は不浄の手で、右手でしか食事はしない。
  • 豚肉は食べない、ムスリムの処理方法以外の肉は食べない。
  • 酒類は飲まない

のような生活習慣と禁忌がある。

つまり、彼らと食事をするときはこの禁忌を十分考慮してあげて行わなければならない。

日本人グループが一緒に食事をするような際は、日本人のグループ、それとインドネシア人のグループとテーブルを分けて、食事することで対応は全く問題ないので、日本人の駐在者や出張者の多かった、建設中は全く気付かなかった。

出張者のメインのホテルになったフェリーメラクホテル

そして、時は経ち、また、詳細はおいおい書くが、最後は小生一人だけ日本人駐在者となった。

そして、すべての仕事が終わり、お世話になったサブコンのインドネシアの友人に食事をご馳走しよう、と考え、ウチの会社のローカル、そして、サブコンの主要メンバーを、レストランに招待した時、もちろん、日本人は小生一人だった。

さて、会食が始まると、もちろん、彼らは食事を注文、そして、アルコールは飲まないので、お茶屋ジュース、基本的にインドネシアの皆さんは自分の食べるものを単品と飲みものを注文。

しかし、小生は日本人の居酒屋風に料理シェア、そして、ビールと注文。

その時はすでにインドネシアに駐在して、既に2年近く経っている、しかし、考えてみると、初めての日本人一人とインドネシア人との食事会だった。

その光景は、簡単に言うと、

「しーん」

とした静寂の中の夕食。

今はホテルになっているが、昔は1階がスーパーたっだ。

小生一人で仕事が終わったという満足感とともに盛り上がりたく、インドネシア人でも少しはビールを飲むメンバーもいたので、無理やり彼らと盛り上がろうとしたが、いかんせん、大多数のメンバーは静かに夕食を取っている、邪魔はできない。

そして、滞りなく夕食会は終わり、最後のスピーチ。

彼らが是非、というので、最後に小生が話したのは、

「インドネシアの皆さんは大変、優秀です、しかし、インドネシアの皆さんは「計画」ということが苦手です、これはあなた方の国が冬がなく、常に豊かな自然があり、常に豊かな自然から、さまざまなものを得られているからだと思います。」

「日本は違います、厳しい冬があり、その冬のために皆さんがその準備をしなければなりません、そのために夏や秋の間に冬の計画をしているのです、だから、日本やアメリカ、ヨーロッパの国々の人々は豊かになったのでしょうか?」

というようなことを話した記憶がある。

そういう文化の違う夕食会も良い思い出である。

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