インドネシアにて
熱帯の国での食あたり
客先と現場サーベイ、現地レストランでの食事
客先であるS社、そして、インドネシアのS社のパートナーである大金持ちの社長が一緒に現場サーベイをするということで、土建の若手のエンジニアと一緒にサイトサーベイに向かった。
昼食の時間になり、客先のインドネシアの大金持ちのパートナーが昼食をご馳走してくれるということで、近くの石油備蓄ターミナルのゲストハウスに行き、昼食にステーキをご馳走になった。
インドネシアの田舎の田舎のレストランである、肉は薄く、味も特に美味しいといったようなものではなかった。
食事も終わり、客先とのサイトサーベイも無事に終わり、ジャカルタの滞在先のホテルに戻り、客先、まして、現地パートナーの客先対応も無事に終わっことを、その当時まだ若手だった私と、土建の若手エンジニアは胸をなでおろし、就寝した。
食あたり、アメーバー赤痢
その夜、どのような夕食を取って、何時頃に寝たとか詳細は全く覚えていないが、夜中に、酷い腹痛とい吐き気で目が覚めて、その後は全く寝られなかったことだけは、既に25年近く前になるが、鮮明に記憶している。
それこそ、10分ごとにトイレで上下から排出していた。
最後はもちろん胃液ばかり。
長い長い夜が明け、一緒に来ていた土建のエンジニアにも聞いてみるが全く同じような状況。
そして、朝には熱も出てきていて、寒気までする。
もうこうなったら、何もできない、その日のアポイントメントをキャンセルして、ホテルでジッと養生することにする。
なぜ、ジャカルタの所長や関係者に連絡しなかったのかは、今となっては全くわからないが、ホテルで寝込んでいて、ホテルに入ってくる熱帯の日差しが明るくて眩しかったことだけは今でも鮮明に記憶している。
夕方ぐらいだと思う、体調も回復してきて、寝ても発汗するようになり、発熱後の発汗は良いサインである、熱も下がった。
その日のうちには体調も回復し、次の日にはもう動けるようになっていた。
その日の朝、ジャカルタの事務所に行って、そのことを事務所の日本人のスタッフに話すと、「それって、アメーバ赤痢の症状ですよね。」と言われ、「日本なら法定伝染病で隔離ですよ。」とまで言われ、「まあ、インドネシアだと、腸チフスも当たり前ですから。」と言われ、これから駐在するにあたっては、衛生面についてはいろいろ考え、最も気を付けなければいけないな、と痛感した出来事であった。
次の日のインドネシアローカル昼食
幸い、土建の若手エンジニアもきちんと回復し、その日のスケジュールである、現地近傍の既設設備内工事を行う工場に訪問し、打合せを予定通り行うことができた。
さて、昼食の時間になり、その打合せ相手の工場の皆さんが私たちを昼食に招待してくれるということになり、ローカルの典型的インドネシアの昼食、バナナの葉っぱにおかずと白飯を乗せ、そして右手で食べる、という昼食をご馳走してくれることになった。
その時は全く分からなかったが、後で分かったのはそのメニューというのは最高のもてなしをしてくれているメニューだったようだ。
小生は昨晩、空っぽになったお腹なので、空腹で仕方なく、早速、おいしくいただいたが、土建のエンジニアの様子がおかしい。
「どうしたんだ、食べないのか?」
と聞くと、
と言ってきた。
「Kさん、よく食べられますね、私は昨日の酷い食あたりがローカルの食事だったので、怖くて食べられません、今、手に冷や汗かいてます!」
そんなもんか、それが普通か、でも食わなきゃ生きていけないじゃん。
と自分が案外、海外の仕事に向いているんだな、とますます自覚する出来事だった。
ロシアにて
モスクワでの思い出
ジンギスカン焼き肉屋さんで、「負けた」
モスクワ出張
インドネシアのジャカルタでの思い出でも書いたが、海外に行くとその地で様々な日本では体験できない経験ができる。
I社でLNGタンクの見積りでサハリン2のプロジェクトに参画していたとき、元請けのC社がサハリンのプロジェクトに参画するならば、まずはモスクワに挨拶に行かないと、何も進まないよ、との指導から、私を含めたサハリンプロジェクトの見積チームはモスクワの彼らのパートナーの会社に見積り依頼をすべく、早速、モスクワに飛んだ。
その会社は、今でも名前は忘れない、「モンタージュ・スペッツストロイ」という建設関係の超大型の元ソ連の国営会社、商社のM社と元請けのC社がいろいろなアレンジをしてくれ、打合せを行った。
この時の元共産圏の国営の大会社の企業活動を無視したコスト体質は驚き以外の何ものでもなかった。
モスクワでの生活
一回目のモスクワ出張を何とかこなし、もう記憶も定かでないが、2回目の出張は小さなチームでの出張、そして、最後まで残っていた。
その頃のロシアは未だ政情が不安定で、まして、首都のモスクワはロシアの為替であるルーブル安で、とにかくインフレの状況であった。
そして、ホテルは超高級なのだが、ホテル飯などは高いだけで味気なく、そして、2回目の出張で、生活にも慣れてきて、便利な地下道の使い方や、地下鉄の乗り方を覚え、そして、ロシアの言語であるキリル語も習得し、英語読みとの比較で、地下鉄でさまざまな観光地にも行けるようになった。
そういう風に様々なことに挑戦し、そしてそれをクリアしていくと、「勝った」、今日もこのチャレンジに「勝った」と満足感に浸っていた。
ジンギスカンレストラン
安全な高級ホテル生活、そして、高級なレストランでの食事は出張中なので、会社にその費用を請求できるとしても飽きてくるのが、人間である。
そして、やはり大衆食を求め、ガイドブックでジンギスカンのレストランを発見し、皆で行った。
システムはまず、お皿を借りる料金を払い、その皿に自分の食べたい野菜や肉をビュッフェの様に乗せ、そして、大鉄板にもっていき、シェフがそれぞれ焼いてくれ、焼き終わると、自分の分をもとの皿にのせて返してくれるのだ。
このように席についてウェイターがメニューを聞いてくれるようなシステムではないので、席はもちろんすべて自由、このレストランは常時混んでいて、席もすぐに満席になり、食事を終えればさっさと片づけられ、新しい客が座る。
この時は一人が3人の席をキープし、また、ビールとかのアルコール類は、別のカウンターなので、2人で3人分のビールを買いに行った。
自分が選んだ食材なので、いままで異国の地で慣れない食事で疲れていた胃もバーベキューというどこで食べても同じ味ということとビールが相乗効果で、全員がリラックスでき満足したものである。
負けた。。
その後、小生は超巨大元ソ連国営建設会社から見積りを受取るために同僚もう一人とモスクワに残り、その日を待機していた。
その頃になると自由な時間は結構、それぞれが過ごすようになり、ある日の夕食もそれぞれが別々にとることになった。
冬に掛かった寒い日だったような気がする、タイツを履き、耳まで隠れるニット帽をかぶり、さあ、先日行ったジンギスカンレストランに行くぞ!と決意を固め、ホテルを出た。
相変わらず、その店は混んでいたが、2度目なので慣れたもので、皿を借り、お金を払い、そして、自分の食べたいものを載せて、焼いてもらい皿に盛りつけてもらい、焼いたBBQ盛り付けた皿を持って、さて食べよう、というところまできた。
順調である。
しかし、店は相変わらず混んでいて、席があまりない、ようやく空いた席に座わり、食べようとした。
おっ、ビールを買い忘れた(というか、手が一杯で持てるような状況ではなかった)。
ということで、席を一瞬離れ、ビールを速攻で買い行き、席に戻った。
もう、BBQはなかった。
もちろん、焼いたばかりの一杯盛り付けられているBBQである、しかし、それにもかかわらず、誰も席にいない以上、店員は混んでいるから席を空けるという職務に忠実だったのだ。
この時に久しぶりに海外に「負けた。」と痛感した。
モスクワ空港で
キャビア
モスクワで買うキャビアは安価だ。
もちろん質も良い。
確か赤の蓋のキャビアと黒の蓋のキャビアとあった記憶があり、もちろんご多分に漏れず、黒の方が高価である。
これも忘れてしまったが、確か、家にお土産で持って帰ることができたので、全くの門外不出のお土産ではなかったことも記憶している。
しかし、持ち出しには制限の個数が厳しくあったような記憶もある。
もちろん、小生を含め、その時に出張に来ていたメンバーは皆、お土産として購入し、帰国準備となった。
空港にて
帰国となり、もちろん、出国の時には出国検査がある。
キャビアの数も数えられ、小生も疑わしい顔をされたがパス。
そして、一緒に行っていた、設計のメンバーも出国検査になった。
彼はその他のお土産に例の耳まで毛皮で保護する、ロシア帽を購入していた。
彼もスーツケース等をチェックされ、もちろんキャビアの個数はパス、さあ、出国だ、と彼がスーツケースを閉じようとしたところ、検査官が、その帽子も脱げ、との指令、もちろん彼は素直に従い、帽子を脱ぎ、係官に渡す。
そうすると、なんと、彼はロシア帽の耳の部分にキャビアを隠し、通関検査を通ろうとしてたのだ!
もちろん没収、しかし、記憶ではなんの処罰もなかったような記憶です。
しかし、小生は文字通り、彼に「脱帽」だった。
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