天然ガス価格形成メカニズムの本質的定義と歴史的展開 ―Gas-on-Gas Competition(GOG)の理論と現実【前半】

GOGの本質的定義:理論と現実の複層構造

GOG(Gas-on-Gas Competition)とは、天然ガスの価格が石油価格や規制当局の決定ではなく、天然ガス自体の需給バランスによって決定される価格形成メカニズムである。しかし、この単純な定義の背後には複雑な現実が存在する。

真のGOGとは、複数の独立した供給者と需要者が、十分な市場情報と取引機会を持ち、物理的制約なしに自由に取引できる環境で形成される価格である。この理想的条件下では、価格は短期的には在庫水準と季節需要、長期的には限界生産コストと需要成長を反映することになる。

しかし現実のGOG市場は、この理想から大きく乖離している。物理的なパイプライン制約、貯蔵能力の限界、輸送距離による時間遅延、政治的介入、金融投機などにより、純粋な需給バランスとは異なる価格形成が行われている。現在我々が「GOG価格」と呼んでいるものは、実際には「準GOG価格」あるいは「混合価格」と表現する方が正確である。

第1期(1980年代後半-1995年):GOG概念の理論的誕生

英国ガス民営化:思想実験から現実への転換

GOGの歴史は1986年の英国ガス公社(British Gas)民営化から始まる。サッチャー政権の市場原理主義政策の一環として実施されたこの民営化は、当初は単純な国営企業売却に過ぎなかった。しかし民営化後のBritish Gasは依然として垂直統合独占企業であり、真の競争環境は存在しなかった。

この時期の英国ガス市場は表面的には民営化されていたものの、実質的には単一企業による価格決定が継続していた。British Gasは北海ガス田からの調達価格を基準に、輸送費と利潤を上乗せした「コストプラス価格」で販売していた。これは後のGOG価格とは根本的に異なる価格形成であった。

重要な変化は1988年のMonopolies and Mergers Commissionによる調査報告書である。この報告書はBritish Gasの独占的地位を問題視し、競争導入の必要性を指摘した。しかし具体的な競争メカニズムについては明確な方向性を示していなかった。この時点では、天然ガス価格を「市場メカニズム」で決定するという発想自体が実験的段階にあった。

北海ガス田開発の副次的効果

1980年代の北海ガス田大規模開発は、意図せずしてGOG市場創設の基盤を提供した。複数の石油会社(Shell、BP、Exxon、Total等)が独立してガス田を開発したため、供給者の多様化が進んだ。これまでの単一供給者構造とは異なる、複数供給者による競争の可能性が生まれた。

しかし当初、これらの独立生産者もBritish Gasとの長期契約により販売しており、最終消費者市場での競争は存在しなかった。真の競争環境創出には、さらに制度的変革が必要であった。

第2期(1990年代中期-2005年):英国NBPの実験と初期課題

NBP創設:世界初のガスハブ実験

1990年代中期の英国ガス市場完全自由化により、NBP(National Balancing Point)が本格的に機能し始めた。NBPは物理的な配送拠点ではなく、英国の高圧ガス輸送網における「仮想的な取引拠点」として設計された。これは当時としては極めて革新的な概念であった。

NBPの設計思想は、電力市場のプールシステムを天然ガスに応用したものであった。送電系統運用者(Transco、後のNational Grid)がガス輸送網の需給バランスを管理し、各供給者と需要者がNBPで仮想的に取引を行う。この仕組みにより、物理的な配送制約から独立した価格形成が可能となった。

初期のNBP価格は、理論通りの季節変動を示した。夏季の低需要期と冬季の高需要期で明確な価格差が発生し、実際の貯蔵サイクルと暖房需要を反映していた。この成功により、NBPは「真のGOG価格」の世界初の実例として注目を集めた。

初期課題:流動性確保の困難

しかしNBP運営初期から、流動性確保という根本的課題が顕在化した。実際のガス需要者(電力会社、産業用需要家、都市ガス会社)だけでは、継続的な取引量を確保できなかった。特に夏季の低需要期には、取引量が大幅に減少し、価格形成に必要な最低限の流動性を下回ることがあった。

この問題解決のため、1990年代後半から金融機関がNBP取引に参加し始めた。投資銀行やエネルギー専門トレーディング会社が「マーケットメイカー」として常時売買注文を提供することで、流動性は改善した。しかしこの改善は、同時に新たな問題を生み出した。

金融機関の参加により、NBP価格形成に実需と無関係な要因が影響するようになった。金利変動、為替変動、株式市場動向などがNBP価格に反映されるようになった。当初の「純粋なガス需給」による価格形成は、既にこの時期から変質し始めていた。

アメリカHenry Hubの並行発展

同時期、アメリカでは異なるアプローチでGOG市場が発展していた。1978年のNatural Gas Policy Act、1985年のFERC Order 436、1992年のFERC Order 636により、段階的に生産者価格規制が撤廃され、市場メカニズムによる価格形成への移行が進んだ。

Henry Hubは1988年にSabine Pipe Line LLCにより設立されたが、本格的なGOG価格形成が始まったのは1990年代前半からである。NBPとの根本的違いは、Henry Hubが実際の物理的配送拠点であったことである。ルイジアナ州Erath近郊の天然ガスパイプライン交差点に位置するHenry Hubでは、実際のガス配送と価格決定が直結していた。

Henry Hubの価格形成は、当初から北米大陸の広大なガス供給網を背景としていた。カナダからの輸入、メキシコ湾岸の生産、テキサス・オクラホマの陸上生産など、多様な供給源からの競争により、NBPよりも安定した価格形成を実現した。

1990年にNYMEX(New York Mercantile Exchange)でHenry Hub先物取引が開始された。この先物市場は当初から金融投資家の参加を前提としており、投機的要素を内包した市場設計となっていた。

第3期(2005-2012年):欧州拡散と制度設計の混乱

EU第三次エネルギーパッケージ:理想と現実の最初の激突

2009年のEU第三次エネルギーパッケージ(第2009/73/EC指令)は、欧州全域でのGOG市場創設を法的に義務付けた。この政策は英国NBPの成功を大陸欧州に拡張する試みであったが、政策立案者は英国とは根本的に異なる市場環境を十分に理解していなかった。

大陸欧州の天然ガス市場は、英国とは全く異なる構造を持っていた。各国とも特定供給者との長期的関係に基づく供給構造となっており、ドイツではロシアからの長期契約、フランスではアルジェリアとの政府間協定、イタリアではリビア・アルジェリアからのパイプライン供給が中心であった。

この環境でGOGハブを設立することは、既存の長期契約体系を根本的に変更することを意味していた。しかし政策立案者は、制度変更だけで市場構造が自動的に変化すると誤解していた。

ガスハブ乱立と機能不全

EU指令により、各国は競い合うようにガスハブを設立した。ドイツではNCG(NetConnect Germany、2009年)とGASPOOL(2009年)、フランスではPEG(Point d’Échange de Gaz、2008年)、イタリアではPSV(Punto di Scambio Virtuale、2003年)、オランダではTTF(Title Transfer Facility、2003年)など、欧州全体で複数のハブが設立された。

しかしこれらのハブの多くは、設立当初から深刻な機能不全に陥った。最大の問題は、既存の長期契約がハブ価格ではなく従来のOPE(石油価格連動)価格で継続されたことであった。新設ハブで取引されるのは、長期契約でカバーされない残余部分に過ぎなかった。

この結果、ハブ価格は全体需給を反映せず、極めて限定的な残余需給のみを反映する「周辺価格」となった。残余需給は全体需給よりも遥かに変動が大きく、ハブ価格は実際の市場状況と乖離した異常な変動を示すようになった。

2009年ガス危機:GOG制度の最初の重大な試練

2009年1月のロシア・ウクライナガス紛争は、新設されたGOG制度にとって最初の重大な試練となった。1月7日から20日まで、ロシアからウクライナ経由での欧州向けガス供給が完全停止した。この時、欧州各国のガスハブ価格は理論通りに機能するはずであった。

しかし現実には、ハブ価格は合理的な価格調整ではなく、パニック的な異常高騰を示した。新設ハブの価格は平常時の数倍から十倍以上まで急騰し、実際の需給逼迫度を大幅に上回る価格反応となった。

この異常反応の原因は、流動性の致命的不足であった。危機時に実需企業は取引を控え、金融投資家も撤退したため、ハブの流動性は平常時を大幅に下回った。この結果、少数の取引が価格を大幅に左右する状況となり、価格発見機能が停止した。

さらに深刻だったのは、ハブ価格上昇が実際の需要調整や代替供給を誘発しなかったことである。産業需要家の多くは長期契約によりOPE価格で供給を受けており、ハブ価格上昇の影響を受けなかった。また代替供給も既存契約の範囲内で供給しており、ハブ価格に反応した追加供給は発生しなかった。

第4期(2012-2020年):米国シェール革命とGOG復権の幻想

シェールガス革命:GOG理論の意外な救世主

2010年代前半の米国シェールガス革命は、期せずしてGOG理論に説得力を与えることとなった。Henry Hub価格は2008年の12.69ドル/MMBtu(7月高値)から2012年には1.92ドル/MMBtu(4月安値)まで急落し、この劇的な価格変化が実際の市場メカニズムの結果であることを世界に示した。

シェールガス技術の特徴は、従来のガス田とは根本的に異なる生産特性にあった。従来ガス田では初期投資が巨額で生産開始まで長期間を要したが、シェールガスでは初期投資が相対的に小規模で短期間での生産開始が可能であった。この技術的特性により、価格変動に対する供給反応が向上した。

Henry Hub価格の低下時には採算割れとなるシェールガス生産者は生産を停止し、価格上昇時には新規掘削を開始した。この供給調整により、Henry Hub価格は比較的安定した推移を示すようになった。これは教科書的なGOG価格形成の実例として世界の注目を集めた。

欧州への波及効果と誤解の拡散

米国の成功事例は欧州のGOG推進論者に強力な論拠を提供した。欧州委員会は2012年に「Gas Target Model」を策定し、2020年までに欧州全域で統合されたGOG市場を創設する目標を設定した。

しかしこの目標設定は米国成功事例への過度な期待に基づいており、欧州固有の制約条件を軽視していた。欧州では国境を越えたパイプライン容量が限定的で、各国の貯蔵能力も不十分であった。さらに環境規制により新規ガス田開発は困難で、シェールガス開発は事実上不可能であった。

TTF台頭とハブ統合の副作用

2015年頃から、欧州の複数ハブの中でオランダTTFが急速に流動性を集約し始めた。TTFが他のハブを圧倒した理由は、オランダの地理的優位性(ドイツ、ベルギー、フランスへのパイプライン接続)と、Gasunie(オランダガス公社)の積極的な市場育成策にあった。

TTFの流動性集約は表面的には「市場統合の成功」と評価された。TTFの取引量は大幅に増加し、欧州ガス市場の中心的ハブとしての地位を確立した。

しかしこの流動性集約は、同時に新たな問題を生み出した。TTF価格がオランダの特殊な需給事情(Groningenガス田減産計画、ロシア依存度、LNG受入能力等)に過度に影響されるようになった。本来は欧州全体の需給を反映すべきハブ価格が、特定地域の事情に左右される「地域偏重価格」となった。

アジア市場でのJKM創設とプライベート指標の複雑化

2009年、英国のPlatts(S&P Globalの一部門)は、アジアLNG市場向けの価格指標JKM(Japan-Korea Marker)を創設した。JKMは実際のハブ価格ではなく、限定的な取引データとブローカー情報から算定される「評価価格」であった。

JKM創設の背景には、アジアLNG市場の不透明性があった。従来、アジアLNG価格は個別の長期契約価格(多くはOPE連動)であり、統一された市場価格が存在しなかった。これによりLNG売買交渉での情報非対称性が深刻で、買い手は適正価格を判断できなかった。

Plattsは1909年創設の老舗情報会社であり、石油市場での価格評価で長年の実績を持っていた。原油価格指標(Brent、WTI等)の算定で業界標準的地位を確立していた実績に基づき、LNG市場でも価格指標提供を企図した。

しかしJKMには根本的な構造問題があった。石油市場では豊富な現物取引が存在するため、Plattsの価格評価は実取引価格を基に算定できた。しかしアジアLNG市場では現物取引量が極めて限定的で、統計的に意味のある価格評価を行うには不十分であった。

シンガポールLNG先物市場の並行発展

同時期の2013年、シンガポール取引所(SGX)はLNG先物取引を開始した。SGX LNG先物は、JKMなどの評価価格とは異なり、実際の取引価格に基づく先物契約として設計された。物理的受渡しオプション付きの契約により、アジア時間帯でのリアルタイム価格発見機能を提供した。

SGX LNG先物の存在により、アジアLNG市場では評価価格(JKM)と実取引価格(SGX先物)が併存する複層的な価格形成構造が確立された。これはヨーロッパのTTF市場やアメリカのHenry Hub市場とは異なる、アジア独特の価格形成メカニズムとなった。

SGXの地理的優位性(東南アジアのLNGハブ)とシンガポールの金融市場インフラを活用することで、アジアLNG市場にも実取引ベースの価格形成機能が部分的に導入されることとなった。

競合指標の登場と市場混乱の拡大

JKMの問題が指摘される中、2010年代に入ってからICIS(Reed Businessの一部門)、Argus Media等の企業が独自のアジアLNG価格指標を発表し始めた。各社は異なる算定方法と異なる価格水準を示し、アジアLNG市場の価格混乱が拡大した。

主要な競合指標:

  • ICIS East Asia Index(EAX):2012年開始、独自の算定手法を採用
  • Argus Northeast Asia LNG:2014年開始、取引量加重方式を採用
  • Gas Intelligence LNG Asia Index:独自の評価手法による月次評価

各指標間で価格差が発生することが頻発し、同じ市場の同じ時点について異なる価格評価が並存する事態となった。この価格差は実務上の深刻な問題となり、契約交渉において価格指標選択が主要争点となった。

第5期(2020-2022年):コロナ禍と価格形成の根本的破綻

2020年石油ショック:OPE契約の機能停止

2020年4月20日、コロナ禍による需要急減とサウジアラビア・ロシア間の増産競争により、WTI原油価格が史上初の**-40.32ドル/バレル**を記録した。この異常事態は、OPE(石油価格連動)契約の根本的欠陥を露呈させた。

背景の詳細:

  • 3月6日:OPEC+会議でロシアが減産延長を拒否
  • 3月8日:サウジアラビアが増産とディスカウント販売を発表
  • 4月12日:OPEC+が過去最大規模の減産(日量970万バレル)で合意
  • 4月20日:WTI 5月限先物が貯蔵能力逼迫により-40.32ドルで取引終了

多くのOPE契約は「負の価格」を想定していなかった。契約条項では「原油価格×係数+基本料金」という公式が使われていたが、原油価格が負になった場合の処理が明記されていなかった。この結果、法的解釈を巡り世界各地で訴訟が頻発した。

より深刻だったのは、OPE価格が実際のガス需給と完全に乖離したことである。原油需要は航空燃料、ガソリン需要の急減により大幅に減少したが、天然ガス需要は在宅勤務による住宅需要変化により相対的に軽微な影響に留まった。しかしOPE契約により、ガス価格も原油価格に連動して下落を余儀なくされた。

GOG価格の地域分断拡大

同時期、GOG価格についても深刻な問題が顕在化した。コロナ禍による需要変動に対して、各地域のGOG価格は全く異なる反応を示した。2020年の価格下落時点で、Henry Hub、TTF、JKMの各価格は大きく異なる水準となり、輸送コストでは説明できない異常な格差が発生した。

この地域分断の原因は、各地域のGOG市場が実際には独立しており、統合されたグローバル市場を形成していなかったことにあった。理論的にはLNG貿易により価格アービトラージが機能し、地域価格差は収束するはずであった。しかし現実には、LNG輸送能力の制約、港湾受入制限、契約の硬直性により、アービトラージ機能は限定的であった。

中国の大幅な調達量変動による市場影響

2021年夏以降、中国はLNG調達量を大幅に増加させた。表面的には冬季需要に備えた通常の在庫積み増しであったが、調達量の急激な変化が世界LNG価格に大きな影響を与えた。中国のスポットLNG調達量は前年比で大幅に増加し、これが世界LNG価格の上昇要因となった。

中国の行動は、GOG市場における「大規模需要者の市場影響力」という問題を浮上させた。従来のGOG理論では、多数の分散した需要者により価格操作は不可能とされていた。しかし中国のような巨大需要者は、調達行動により市場価格に大きな影響を与えることが判明した。

この調達行動には政治的動機も含まれていた。中国は2022年北京冬季五輪を控えており、エネルギー供給の確保が政治的優先事項であった。このため経済的考慮とは異なる要因による大量調達が実行された。

第6期(2022年-現在):地政学時代の価格形成破綻

ロシア・ウクライナ戦争:経済合理性の完全放棄

2022年2月24日のロシアによるウクライナ侵攻以降、欧州ガス市場は経済合理性ではなく政治的考慮が価格形成を支配する市場となった。EU委員会は5月18日に「REPowerEU」計画を発表し、2030年までのロシア化石燃料依存脱却を決定し、経済的コストを度外視した供給源転換を開始した。

この政治的決定により、TTF価格は2022年8月26日に一時339.195ユーロ/MWh(約115ドル/MMBtu相当)まで急騰した。この価格水準は、実際の代替供給コストを大幅に上回る異常値であった。

より深刻だったのは、この異常価格が実際の需給調整を誘発しなかったことである。産業需要家は生産停止やエネルギー転換により需要を削減したが、これは価格反応ではなく政治的圧力による行動であった。

後半に続く

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