なぜ米国はイスラエルを支援し続けるのか。人道危機が報じられ、国際的非難が高まる中でも、その姿勢は変わらない。答えは1979年にある。この年、三つの歴史的出来事が米国を縛る「負の十字架」を生み出した。Camp David合意、イラン革命、ソ連のアフガニスタン侵攻―これらが構築した地政学的構造は、45年後の今日まで米国外交を規定している。本稿は三部構成でこの構造を詳細に分析する。第I部では「三つの呪縛」の起源と持続メカニズムを解明する。Gaza虐殺を止められない米国の無力は、構造的必然である。
序章:2025年10月―第3次停戦の日、Gazaは廃墟だった
2025年10月9日、Gaza地区全域に3度目の停戦が発効した。2023年10月7日の戦争開始から2年以上が経過していた。しかしその静寂は、平和ではなく死の静寂だった。
国連人道問題調整事務所(OCHA)の報告書が示す数字は衝撃的だった。
項目 | 数値 |
死者 | 68,000人以上(民間人70%以上) |
子供死者 | 17,000人以上 |
負傷者 | 135,000人以上 |
行方不明 | 12,000人以上(瓦礫の下) |
建物破壊 | 70%崩壊・損壊 |
避難民 | 190万人(人口の85%) |
病院機能停止 | 36施設中34施設 |
学校損壊 | 625校中85% |
飢餓状態 | 人口の95%(IPC Phase 4-5) |
Gazaは完全に破壊されていた。復興費用は世界銀行の推計で500億ドルから1,500億ドル。しかし復興の見通しは立っていない。
第3次停戦発効の瞬間、世界中のメディアがこの惨状を報じた。BBCは「Gaza: The Scale of Destruction」、CNNはドローンによる破壊の航空映像を放映し、ニューヨーク・タイムズは瓦礫の山と化したGazaの衛星写真を掲載した。
2025年10月時点でも戦闘は散発的に継続しており、停戦は何度も違反されていた。戦争は完全には終結していない。
そして世界は問うた。「なぜ米国は止めなかったのか?」
この問いは、複数の深い謎を含んでいる。
第一の謎:なぜ米国は批判しながら支援を続けたのか?
Biden大統領は繰り返し「民間人の犠牲が多すぎる」と述べた。Chuck Schumer上院院内総務はNetanyahu首相の辞任を要求し、「平和への最大の障害」と非難した。2024年5月、米国は史上初めてイスラエルへの重爆弾供給を停止した。
しかし同時に、米国は2023年から2024年の2年間で286億ドル、通常の年間支援額38億ドルの7.5倍に相当する軍事支援をイスラエルに提供し続けた。この矛盾は何を意味するのか。
第二の謎:なぜ米国は国連で一貫して拒否権を行使したのか?
2023年10月から2025年3月までの18ヶ月間、国連安全保障理事会ではGaza停戦を求める決議案が7回提出された。そのすべてで、米国は拒否権を行使した。世界の大多数が停戦を求める中、米国だけがイスラエルを支持し続けた。
米国が国連安保理でイスラエル関連決議に拒否権を行使した回数は、1972年から2025年までの53年間で57回に達する。これは米国が行使した拒否権の半数以上を占める。なぜ米国は、これほどまでにイスラエルを守り続けるのか。
第三の謎:なぜ国際社会は無力だったのか?
国際刑事裁判所(ICC)は2024年11月、Netanyahu首相とGallant前国防相に戦争犯罪で逮捕状を発行した。国際司法裁判所(ICJ)は2025年5月、イスラエルに「即時停戦」を命じる暫定措置命令を出した。欧州連合(EU)は経済制裁を検討した。しかしこれらすべてが、Gazaの破壊を止めることはできなかった。
米国が拒否権を持つ限り、国連安保理は機能しない。ICCの逮捕状は126カ国で有効だが、米国は「管轄権を認めない」と批判した。ICJの命令に強制力はない。国際社会は、イスラエルとその背後にいる米国の前に無力だった。
第四の謎:なぜNetanyahu は戦争を終わらせないのか?
イスラエル国内の世論調査では、64%がNetanyahu の辞任を求めている。66%が戦争の終結を支持している。軍への信頼度は77%だが、Netanyahu への信頼度はわずか46%である。イスラエル国民の過半数がNetanyahu を信頼していない。
にもかかわらず、Netanyahu は戦争を継続している。2025年1月19日に停戦が発効したが、わずか2ヶ月後の3月22日に戦闘が再開された。Netanyahu の裁判が続く限り、戦争は終わらないのではないか。イスラエルは「Netanyahu の人質」になっているのではないか。
第五の謎:この構造はいつから始まったのか?
これらの謎は、すべて一つの根本的な問いにつながる。なぜ米国は、世界の批判を浴びながら、国際的孤立を深めながら、それでもイスラエルを支援し続けるのか。なぜ米国は「止めたいが止められない」状態に陥っているのか。
この問いの答えは、2025年にあるのではない。2023年10月7日のHamas攻撃にあるのでもない。それは遥か過去に遡る。
本論文は、この謎を解明する。
なぜか。その答えを求めて、我々は1948年に遡る。
第I部:闇の起源―1948-1979年、米国が「負の十字架」を背負うまで
第1章:建国から孤立へ―1948-1960年
1948年5月14日、David Ben-Gurionはテルアビブで「イスラエル国の独立」を宣言した。この瞬間、中東に新しい国家が誕生した。しかし同時に、75万人のパレスチナ人が故郷を追われる「Nakba(大災厄)」が始まった。これは単なる建国ではなく、中東の地政学を根本から変える地震だった。
独立宣言の翌日、エジプト、ヨルダン、シリア、イラク、レバノンの5カ国がイスラエルに宣戦布告した。第一次中東戦争の始まりである。人口わずか60万人の新興国家が、人口数千万のアラブ諸国連合と戦う構図だった。しかしイスラエルは勝利した。1949年の休戦協定までに、支配地域は国連分割案の56%からパレスチナ全体の78%へと拡大した。
この勝利は、国際的孤立の始まりでもあった。アラブ世界全体がイスラエルを「侵略者」と見なし、国交を拒否した。イスラエルは中東で完全に孤立した存在となった。
米国の立場は曖昧だった。Harry Truman大統領は独立宣言の11分後に国家承認を発表し、世界で最初にイスラエルを承認した国となった。しかしこれは戦略的判断ではなく、国内政治的配慮だった。1948年は大統領選挙の年であり、Trumanはユダヤ系有権者の支持を必要としていた。国務省と国防総省は反対していた。彼らの懸念は明確だった。イスラエル承認はアラブ世界を敵に回し、中東の石油へのアクセスを危うくする。しかしTrumanは政治的判断を優先した。
1.1 1956年Suez危機――同盟国への不信
1956年、中東の地政学が劇的に変化する事件が起きた。Suez危機である。7月26日、エジプトのGamal Abdel Nasser大統領がSuez運河の国有化を宣言した。英仏両国にとって、運河は中東とアジアを結ぶ生命線だった。英国とフランスは、イスラエルと秘密協定を結んだ。イスラエルがエジプトに侵攻し、英仏両国は「運河の安全確保」を名目に軍事介入する計画だった。
10月29日、イスラエル国防軍がSinai半島に侵攻した。11月5日、英仏軍がPort Saidに上陸した。軍事的には成功だった。イスラエルはSinai半島全域を占領し、英仏軍はSuez運河地帯を制圧した。しかしその瞬間、米国が介入した。
Dwight Eisenhower大統領は激怒した。英仏イスラエルは米国に事前通告なく軍事行動を開始した。冷戦下、ソ連がこの機会を利用してエジプトに接近し、中東での影響力を拡大するリスクがあった。Eisenhowerは英仏イスラエルに即時撤退を要求した。英国が拒否すると、米国は英国ポンドへの金融攻撃を開始した。英国ポンドは暴落し、英国経済は危機に陥った。英国のAnthony Eden首相は屈服し、11月6日に撤退を発表した。フランスとイスラエルも続いた。1957年3月までに、イスラエル軍はSinai半島から完全撤退した。
イスラエルにとって、この経験は屈辱的だった。軍事的には勝利したにもかかわらず、米国の圧力により全ての成果を放棄せざるを得なかった。そしてイスラエルの指導者たちは、決定的な教訓を得た。伝統的な同盟国は信頼できない。米国は自国の利益のためにイスラエルを見捨てる。
この教訓は、Ben-Gurion首相の戦略的思考を変えた。イスラエルは、誰にも依存しない究極の抑止力を必要としている。それは、核兵器である。
1.2 フランスとの秘密同盟
Suez危機の失敗後、英国は中東への関与を縮小した。しかしフランスは異なった。フランスはアルジェリアで独立戦争と戦っており、Nasserのエジプトがアルジェリア独立運動を支援していることに激怒していた。フランスにとって、イスラエルは「共通の敵」を持つ潜在的同盟国だった。
1957年10月、フランスとイスラエルは秘密核協力協定に署名した。フランスは、イスラエルがNegev砂漠のDimonaに原子炉を建設することを支援する。この協定は極秘だった。国際社会はもちろん、米国にさえ知らされなかった。この瞬間、イスラエルの核武装への道が開かれた。
年 | 出来事 | 主要アクター | 帰結 |
1948年5月 | イスラエル独立宣言、Nakba | Ben-Gurion、Truman | 第一次中東戦争勃発 |
1949年 | 休戦協定 | イスラエル、アラブ5カ国 | 領土拡大(56%→78%)、中東で完全孤立 |
1956年10月 | Suez危機(英仏イスラエル同盟) | Eden、Ben-Gurion | Sinai占領、軍事的勝利 |
1956年11月 | 米国の介入 | Eisenhower | 英国ポンド暴落、撤退強制 |
1957年3月 | Sinai撤退完了 | イスラエル | 軍事的成果すべて放棄、同盟国への不信 |
1957年10月 | 仏イスラエル秘密核協力協定 | フランス、Ben-Gurion | 核武装への道が開かれる |
Ben-Gurionは1960年のスピーチでこう述べている。「小国は大国に依存することはできない。大国は自国の利益のために小国を見捨てる。イスラエルは、自らの手で生存を保証しなければならない」。この言葉は、Suez危機の教訓そのものだった。
1948年から1960年の12年間は、イスラエルという国家の性格を形成した決定的な時期だった。周囲をすべて敵対国に囲まれ、人口わずか数百万の小国が、数億のアラブ世界と対峙する。この状況は、イスラエルに独特の戦略文化を生み出した。絶対的自助、先制攻撃、そして核兵器による最終的な生存保証。この国家性格は、1948年から1960年の孤立の中で育まれた。そして1957年、フランスという「共犯者」を得て、イスラエルは核武装への道を歩み始めた。
第2章 フランスの危険な贈り物―秘密の核武装(1957-1967年)
2.1 「敵の敵は友」―仏イスラエル秘密核協定の誕生
1956年のスエズ危機は、イスラエルに決定的な教訓を残した。国際社会からの孤立、そして何より同盟国すら信頼できないという冷厳な現実である。この危機を通じて、Ben-Gurion首相は確信した。「小国は自らの手で生存を保証しなければならない。その保証とは、絶対的な抑止力、すなわち核兵器である」。
一方、地中海を挟んだフランスもまた、激しい屈辱と怒りを抱えていた。1954年に始まったアルジェリア独立戦争は泥沼化し、エジプトのNasser大統領が独立勢力FLN(アルジェリア民族解放戦線)を支援していた。さらにスエズ危機では、米国Eisenhower政権がフランスと英国に撤退を強制した。旧宗主国の誇りは地に堕ち、大西洋同盟への不信感は頂点に達していた。
こうした状況下で、フランスとイスラエルは共通の敵Nasserを見出した。「敵の敵は友」という古典的な戦略論理が、地中海を越えて両国を結びつけたのである。1957年10月、パリで秘密協定が締結された。フランスは、イスラエルに対してプルトニウム生産用原子炉の建設を支援し、核兵器開発に必要な技術を提供することに合意した。この協定は極秘扱いとされ、フランス議会にすら報告されなかった。
フランスの動機は、単なる報復感情だけではなかった。第四共和政末期の政治的混乱の中で、国防省と原子力庁の一部官僚は、イスラエルとの核協力を「フランスの戦略的自立」の象徴と見なしていた。米国に依存しない独自の核戦略を追求する中で、イスラエルは理想的なパートナーであり、実験場でもあった。Marcoule原子炉で培った技術を輸出し、中東に「代理核保有国」を育成することは、フランスの影響力拡大にも繋がると考えられたのである。
2.2 砂漠の秘密都市―Dimona原子炉建設
1958年、Negev砂漠の小都市Dimonaの郊外で、極秘の建設プロジェクトが始まった。表向きは「Negev Nuclear Research Center(Negev核研究センター)」という名称で、「繊維工場」や「砂漠灌漑研究所」を偽装する看板が立てられた。しかし実態は、プルトニウム生産を目的とした本格的な軍事用原子炉施設であった。

Dimona施設の中核は、フランスMarcoule原子炉と同型の天然ウラン黒鉛減速炉であった。この炉型は電力生産には非効率だが、プルトニウム生産には最適化されていた。施設は四つの主要部分から構成された。第一に、熱出力24メガワットの原子炉本体。第二に、使用済み燃料からプルトニウムを分離する再処理施設。第三に、原子炉の減速材として使用する重水を生産するプラント。そして第四に、地下深くに建設された核兵器組立施設である。この地下施設の存在は、長年にわたって外部には秘匿された。
建設には、フランスの国営企業Saint-Gobain Techniquesが中心的役割を果たし、約2,500名のフランス人技術者がイスラエルに派遣された。彼らはフランス旅券ではなく、偽造された身分証明書を携帯し、プロジェクトへの関与を隠蔽した。総工費は1億ドルを超え、これは当時のイスラエルGDPの約10%に相当する巨額投資であった。小国イスラエルが、国家の命運を賭けてこのプロジェクトに注ぎ込んだ資源の規模は、核武装への執念の深さを物語っている。
建設は急ピッチで進められた。1960年までに原子炉建屋の主要構造が完成し、1963年には原子炉が臨界に達した。プルトニウムの生産が開始されたのである。同時に、イスラエルの科学者たちはSoreq Nuclear Research Center(ソレク核研究センター)で核兵器設計の研究を進めていた。理論計算、爆縮レンズの設計、起爆装置の開発―核兵器製造に必要なあらゆる技術が、並行して蓄積されていった。
表2-1: Dimona原子炉施設の構成
施設名 | 機能 | 技術仕様 | 建設期間 |
原子炉本体 | プルトニウム生産 | 天然ウラン黒鉛減速炉、熱出力24MW | 1958-1963年 |
再処理施設 | プルトニウム抽出 | PUREX法、年間処理能力40kg Pu | 1960-1965年 |
重水プラント | 重水生産 | Girdler sulfide法 | 1959-1962年 |
地下組立施設 | 核兵器製造 | 地下6階建構造、総面積非公開 | 1960-1966年 |
2.3 原子炉の「点火」と核兵器完成への道
1963年は、イスラエル核開発の転換点となった。この年の前半、Dimona原子炉は臨界に達し、プルトニウムの生産が本格的に開始された。核兵器製造に必要な核分裂性物質が、初めてイスラエルの手に入ったのである。一基の核爆弾製造には約5キログラムのプルトニウムが必要とされる。Dimonaの年間生産能力は推定40キログラムであり、理論上は年間8発の核兵器製造が可能であった。
しかし1963年6月、核開発の最大の推進者であったBen-Gurion首相が突然辞任した。表向きの理由は「疲労」とされたが、背景には複雑な政治的要因があった。後任のLevi Eshkol首相は、Ben-Gurionほど核武装に固執していなかったが、プロジェクトは既に後戻りできない段階に達していた。膨大な投資が行われ、数千人の科学者・技術者が関与し、施設は完成目前であった。プロジェクトは粛々と継続された。
1964年から1966年にかけて、イスラエルの核兵器開発は最終段階に入った。再処理施設でプルトニウムが抽出され、Soreqの研究所で核兵器の設計が完成し、地下施設で実際の兵器組立が行われた。イスラエルが最初の核爆弾を完成させた正確な時期は、今日に至るまで公式には明らかにされていない。しかし複数の歴史家と情報機関の分析によれば、1966年末から1967年初頭にかけて、イスラエルは少なくとも1発から2発の核兵器を保有するに至ったと推定されている。
そして1967年6月、六日戦争が勃発した。イスラエル軍は、エジプト、ヨルダン、シリアの連合軍を圧倒的な速さで撃破し、シナイ半島、West Bank、Golan高原を占領した。この戦争で、イスラエルは通常兵器による圧倒的な軍事的優位を示したが、戦争の背後には秘密の抑止力が存在していた。イスラエル国防軍の一部資料によれば、戦争開始前にDimonaから特殊部隊によって核デバイスが搬出され、「万が一の事態」に備えて待機状態に置かれたとされる。この措置が実際に取られたかは確認されていないが、もし事実であれば、イスラエルは既に核兵器を作戦可能な状態で保有していたことになる。
六日戦争の勝利により、イスラエルは中東の軍事大国としての地位を確立した。しかしその陰で、より深刻な変化が進行していた。イスラエルは秘密裏に核保有国となり、中東のパワーバランスは根本的に変容したのである。Negev砂漠の秘密施設で生み出された核兵器は、その後のイスラエルの安全保障政策の基盤となり、同時に米国との関係を決定的に変える要因ともなった。しかしそれは、第3章以降で論じるべき、別の物語である。
表2-2: イスラエル核開発の主要マイルストーン
年月 | 出来事 | 意義 |
1957年10月 | 仏イスラエル秘密核協定締結 | 核開発プロジェクト正式始動 |
1958年 | Dimona原子炉建設開始 | 物理的施設建設の開始 |
1960年 | 原子炉建屋主要構造完成 | 建設プロジェクト中間達成 |
1963年 | 原子炉臨界、プルトニウム生産開始 | 核物質生産能力獲得 |
1963年6月 | Ben-Gurion辞任 | 推進者交代もプロジェクト継続 |
1966-1967年 | 最初の核兵器完成(推定) | 核保有国化達成 |
1967年6月 | 六日戦争、核デバイス待機状態(未確認) | 核抑止力の潜在的運用 |
1967年の時点で、イスラエルは秘密裏に核保有国となった。この事実は、やがて世界、特に米国に発見されることになる。そしてその発見が、米イスラエル関係に決定的な転換をもたらすのである。
第3章 発見と黙認―米国の苦悩と妥協(1960-1969年)
3.1 CIAの衝撃―砂漠の秘密の暴露
1960年12月、米国CIAはU-2偵察機が撮影したNegev砂漠の航空写真を分析していた。そこに映し出されていたのは、イスラエルが主張する「繊維工場」や「研究施設」の姿ではなかった。巨大な冷却塔、特徴的なドーム型建屋、そして周囲を取り囲む厳重な警備施設―これらはすべて、原子炉施設の典型的な特徴であった。CIAの核拡散分析官たちは即座に結論に達した。「イスラエルは秘密裏に軍事用原子炉を建設している」。
この発見は、Eisenhower政権末期のワシントンに衝撃を与えた。米国は核不拡散を外交政策の柱としており、同盟国による秘密核開発は到底容認できるものではなかった。しかし1961年1月にEisenhowerからKennedyへと政権が移行する過渡期であり、即座の対応は困難であった。この問題は、若き新大統領John F. Kennedyの肩に重くのしかかることになった。
Kennedyは就任直後から、イスラエルの核開発を外交上の最優先課題の一つと位置づけた。1961年5月、彼はBen-Gurion首相との首脳会談で、Dimona施設への査察を強く要求した。書簡のやり取りでは、Kennedyの語調は次第に厳しさを増していった。「貴国の核開発計画に関する透明性の欠如は、両国関係に深刻な影響を及ぼす」。米国からの軍事援助と経済支援を梃子に、Kennedyはイスラエルに圧力をかけ続けた。
Ben-Gurionは窮地に立たされた。核開発を放棄することは、イスラエルの生存戦略そのものを放棄することを意味した。しかし米国との決定的な対立も避けねばならなかった。彼が選択したのは、巧妙な欺瞞工作であった。1961年と1962年、Ben-Gurionは米国の科学者査察団をDimonaに受け入れた。しかしそれは「ポチョムキン村」であった。再処理施設への入口は偽の壁で隠蔽され、地下の核兵器組立施設は完全に秘匿された。査察団に見せられたのは、あくまで「平和的研究用原子炉」の表層部分だけであった。
3.2 Kennedy暗殺と政策転換―Johnson政権の「戦略的黙認」
1963年は、米国のイスラエル核政策にとって決定的な転換点となった。6月、激しい圧力に耐えかねたBen-Gurionが首相を辞任した。そして11月22日、Kennedyがダラスで暗殺された。後を継いだLyndon B. Johnson副大統領は、前任者とは全く異なる視座からイスラエルを見ていた。
Johnsonは、中東におけるイスラエルの戦略的価値を重視する現実主義者であった。1960年代半ば、冷戦は激化し、ソ連はエジプト、シリア、イラクといったアラブ諸国への影響力を拡大していた。この地政学的文脈において、Johnsonとその側近たちは、イスラエルを「中東における西側陣営の不沈空母」と見なすようになった。核武装したイスラエルは、むしろソ連の影響力拡大に対する強力な抑止力となり得るという戦略的再評価が進んだのである。
Johnson政権下で、米国のイスラエル核政策は「強硬な反対」から「戦略的黙認」へと静かに転換した。査察は形式的に継続されたが、その頻度と厳格さは大幅に緩和された。1964年から1967年にかけて、イスラエルが核兵器の最終段階を進める間、米国は事実上目を瞑っていたのである。この期間、米国からイスラエルへの軍事援助は急増した。1962年には年間1,300万ドルであった援助額が、1966年には9,000万ドルへと約7倍に膨れ上がった。
表3-1: 米国の対イスラエル軍事援助額の推移(1962-1968年)
年度 | 軍事援助額(百万ドル) | 前年比増加率 | 主要供与兵器 |
1962 | 13 | – | 小火器、輸送車両 |
1963 | 15 | +15% | 対空ミサイル(Hawk) |
1964 | 37 | +147% | M48戦車、装甲車 |
1965 | 71 | +92% | A-4攻撃機 |
1966 | 90 | +27% | 追加A-4、輸送機 |
1967 | 24 | -73% | 六日戦争後の一時削減 |
1968 | 106 | +342% | F-4ファントム戦闘機 |
この援助額の急増は、単なる偶然ではなかった。それは、核開発を黙認する代償として、イスラエルを通常兵器で強化し、中東における米国の戦略的利益を守るという暗黙の取引の一部であった。
3.3 六日戦争の衝撃とCIA最終評価
1967年6月5日、六日戦争が勃発した。イスラエル空軍は早朝、エジプト空軍基地を奇襲し、わずか3時間でアラブ連合軍の航空戦力の大半を破壊した。6日間の電撃戦で、イスラエルはシナイ半島、West Bank、Golan高原を占領し、領土を戦前の約4倍に拡大した。この圧倒的勝利は、世界にイスラエルの軍事的優位性を印象づけた。
しかし戦争の背後で、CIAは別の懸念を深めていた。戦争直前、諜報機関はイスラエルが核デバイスを何らかの形で「準備状態」に置いた可能性を示唆する断片的情報を入手していた。もしイスラエルが敗北の危機に直面していたら、核兵器が使用されていた可能性はゼロではなかった。この認識は、ワシントンの政策立案者たちに深刻な問題を突きつけた。中東に核保有国が誕生したという現実を、もはや無視することはできなかったのである。
1968年、CIAは最終的な評価報告書を作成した。その結論は明確であった。「イスラエルは核兵器を保有している」。報告書は、Dimonaのプルトニウム生産能力、核兵器設計の進展状況、そして運搬手段(Jericho弾道ミサイルと改造されたファントム戦闘機)の分析に基づき、イスラエルが少なくとも数発の核兵器を保有していると結論づけた。この報告は、Richard Nixon次期大統領に引き継がれた。
表3-2: Kennedy、Johnson、Nixon政権のイスラエル核政策比較
政権 | 期間 | 基本姿勢 | 査察政策 | 軍事援助 | 主要人物の発言 |
Kennedy | 1961-1963 | 強硬反対 | 厳格な査察要求、年2回実施 | 抑制的(年間1,500万ドル前後) | “核拡散は許容できない”(Kennedy) |
Johnson | 1963-1969 | 戦略的黙認 | 形式的査察に緩和 | 急増(1966年9,000万ドル) | “イスラエルは戦略的資産”(Rusk国務長官) |
Nixon | 1969-1974 | 公式黙認 | 査察中止、密約締結 | 大規模供与(年間数億ドル) | “Don’t ask, don’t tell”(Nixon-Meir密約) |
3.4 Nixon-Meir密約―「曖昧性政策」の誕生
1969年1月、Richard Nixonが第37代大統領に就任した。彼の国家安全保障担当補佐官Henry Kissingerは、イスラエル核問題に現実主義的な解決策を求めた。Kissingerの分析は冷徹であった。「イスラエルの核保有は既成事実である。それを逆転させることは不可能であり、試みること自体が米国の中東政策を麻痺させる。問題は、この現実とどう共存するかである」。
1969年9月26日、NixonはワシントンでイスラエルのGolda Meir首相と秘密会談を行った。この会談で、両者は歴史的な密約に合意した。その内容は、後に「Don’t ask, don’t tell(聞かない、言わない)」政策として知られるようになる。米国は、イスラエルの核兵器保有について公式には質問せず、承認もしない。イスラエルは、核兵器の保有を公式には宣言せず、核実験も行わない。そして両国は、この「曖昧性」を永続的に維持する―これが密約の骨子であった。
この密約により、イスラエルは核保有国としての実質的地位を確保しながら、国際的な非難と制裁を回避することができた。米国は、同盟国の核拡散という外交的悪夢を「存在しないこと」として封印し、中東政策の自由度を保つことができた。しかしこの密約には、重大な代償が伴っていた。米国は、イスラエルの核武装を黙認する見返りとして、イスラエルの安全保障に対する事実上の永続的コミットメントを負ったのである。
表3-3: 1960-1969年の米イスラエル核問題年表
年月 | 出来事 | 米国の対応 | イスラエルの対応 |
1960年12月 | CIA、U-2偵察でDimona発見 | Eisenhower政権、説明要求 | 「繊維工場」と弁明 |
1961年5月 | Kennedy、Ben-Gurion会談 | 査察要求、圧力強化 | 形式的査察受入に合意 |
1961-1962年 | 米国査察団Dimona訪問 | 「平和利用」報告に疑念 | 「ポチョムキン村」で欺瞞 |
1963年6月 | Ben-Gurion辞任 | 圧力奏功と評価 | Eshkol新首相、継続 |
1963年11月 | Kennedy暗殺 | Johnson副大統領昇格 | 圧力低下を認識 |
1964-1966年 | 核兵器完成段階 | 査察緩和、黙認姿勢 | 秘密裏に核武装完成 |
1967年6月 | 六日戦争 | イスラエル軍事力を再評価 | 核デバイス待機状態か |
1968年 | CIA報告「イスラエル核保有」 | 事実として認識 | 公式否定継続 |
1969年9月 | Nixon-Meir密約 | 「Don’t ask, don’t tell」合意 | 曖昧性政策確立 |
1969年9月の密約により、米国とイスラエルの関係は新たな段階に入った。それは単なる同盟関係ではなく、核の秘密を共有する特殊な結びつきであった。この密約は、その後半世紀以上にわたって両国関係の基盤となり、同時に米国が背負う「負の十字架」の最初の鎖となったのである。この密約がいかに米国の中東政策を縛り、2025年のGaza戦争における米国の対応を制約することになったのか―それは第4章以降で詳述する。しかし1969年の時点で、その重大な帰結を予見できた者は、ほとんどいなかったのである。
第4章 戦略的依存の罠―1973年戦争と「負の十字架」の完成(1970-1979年)
4.1 「Samson Option」の誕生―核による脅迫の論理
1969年のNixon-Meir密約により、イスラエルの核保有は「曖昧性」という外套に包まれた。しかしこの曖昧性は、決して無害なものではなかった。それは戦略的抑止力として機能すると同時に、米国を縛る見えない鎖でもあった。
1970年代初頭、イスラエルの戦略立案者たちは、核兵器の運用ドクトリンを体系化した。その中核概念が「Samson Option(サムソン・オプション)」である。旧約聖書の士師記に登場する怪力の英雄Samsonは、ペリシテ人に囚われた際、神殿の柱を倒して敵もろとも自らを滅ぼした。この神話に倣い、イスラエルの核ドクトリンは「国家存亡の危機においては、敵国もろとも中東全体を核の炎で焼き尽くす」という極限的な報復戦略を含んでいた。
この戦略の恐ろしさは、その非対称性にあった。イスラエルにとって「存亡の危機」とは何を意味するのか、その定義は曖昧であり、イスラエルの主観的判断に委ねられていた。通常戦力での敗北が「存亡の危機」に該当するのか。エルサレムの陥落は引き金となるのか。この不確実性こそが、Samson Optionの抑止力の源泉であると同時に、米国にとっての悪夢でもあった。もしイスラエルが通常戦争で劣勢に陥った場合、核兵器使用に踏み切る可能性を否定できない。そして中東での核戦争は、米ソ超大国の直接衝突、すなわち第三次世界大戦へとエスカレートする危険性を孕んでいたのである。
表4-1: イスラエルの核戦力推定(1970-1979年)
年 | 推定核弾頭数 | 主要運搬手段 | 射程距離 | 標的想定 |
1970 | 10-20発 | Jericho-I弾道ミサイル | 500km | エジプト、シリア主要都市 |
1973 | 20-30発 | Jericho-I、F-4戦闘機 | 500km/1,600km | カイロ、ダマスカス、バグダッド |
1975 | 30-50発 | Jericho-I、F-4、F-15 | 500km/2,000km+ | 中東全域 |
1979 | 50-80発 | Jericho-II開発中、F-15、F-16 | 1,500km/2,500km+ | 中東全域+イラン |
4.2 Yom Kippur戦争の衝撃―核使用の瀬戸際
1973年10月6日、贖罪日(Yom Kippur)の最も神聖な時刻に、エジプトとシリアはイスラエルに対して奇襲攻撃を開始した。エジプト軍はスエズ運河を渡河してシナイ半島に侵攻し、シリア軍はGolan高原に雪崩れ込んだ。六日戦争で屈辱的敗北を喫したアラブ諸国の、周到に準備された復讐戦であった。
戦争初期、イスラエル軍は劣勢に立たされた。Golan高原では、シリアの機甲部隊がイスラエルの防衛線を突破し、ガリラヤ湖に向けて進撃した。もしGolan高原が陥落すれば、イスラエル北部の中枢部が直接脅威に晒される。シナイ戦線でも、エジプト軍の対戦車ミサイルと地対空ミサイルが、イスラエルの機甲部隊と空軍を苦しめた。10月8日、戦争開始からわずか2日後、イスラエルの戦車部隊は予備戦力の投入を余儀なくされ、弾薬と燃料の備蓄は急速に底をつきつつあった。
この危機的状況下で、Golda Meir首相とMoshe Dayan国防相は、前例のない決断を下した。Dimonaから核弾頭を取り出し、Jericho弾道ミサイルとF-4戦闘機に搭載して、発射準備態勢に入らせたのである。この措置は厳重な機密とされたが、米国の偵察衛星と諜報機関はイスラエルの核活動の異常な活発化を検知した。10月9日早朝、CIAはNixon大統領に緊急報告を行った。「イスラエルは核兵器を作戦準備状態に置いた可能性が高い」。
Nixonとキッシンジャー国務長官は、事態の深刻さを即座に理解した。もしイスラエルが劣勢を挽回できなければ、核兵器使用に踏み切るかもしれない。そして中東での核戦争は、ソ連の介入を招き、米ソ核戦争へとエスカレートする可能性があった。Nixonは決断した。「イスラエルを救わなければならない。それが核戦争を防ぐ唯一の道だ」。
10月12日、米国は「Operation Nickel Grass(ニッケル・グラス作戦)」と名付けられた史上最大規模の緊急空輸作戦を開始した。C-5輸送機とC-141輸送機が、24時間体制でイスラエルに武器弾薬を空輸した。戦車、装甲車、対戦車ミサイル、航空機の部品、精密誘導爆弾―イスラエル軍が必要とするあらゆる物資が、大西洋を越えて届けられた。空輸された物資の総量は2万2,000トンに達し、これは第二次世界大戦中のベルリン空輸に匹敵する規模であった。
表4-2: Operation Nickel Grass(1973年10月12日-11月14日)
項目 | 数量・規模 |
作戦期間 | 33日間(10月12日-11月14日) |
総飛行回数 | 566回(C-5: 145回、C-141: 421回) |
総空輸量 | 22,325トン |
主要供与兵器 | M60戦車40両、A-4攻撃機36機、F-4戦闘機46機、TOW対戦車ミサイル2,000発、AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル、精密誘導爆弾 |
総費用 | 約22億ドル(贈与) |
参加基地 | 米国東海岸、ドイツ、ポルトガル(アゾレス諸島Lajes基地) |
この大規模空輸により、イスラエル軍は反撃に転じた。10月中旬以降、Golan高原ではシリア軍を押し戻し、シナイ戦線ではスエズ運河を逆渡河してエジプト第三軍を包囲した。10月22日、国連安保理は停戦決議を採択し、10月25日に停戦が発効した。核の瀬戸際は、辛うじて回避されたのである。
4.3 戦後の戦略的再編成―米イスラエル「特殊関係」の制度化
Yom Kippur戦争は、米国とイスラエルの関係を根本的に変容させた。戦争以前、両国の関係は限定的な軍事協力に留まっていた。しかし戦争を通じて、米国はイスラエルの存続が米国自身の死活的利益であることを認識した。その理由は、イスラエルの戦略的価値だけではなかった。より重要なのは、イスラエルの敗北が核兵器使用を引き起こし、米国を制御不能な核戦争に巻き込むリスクであった。
1974年から1979年にかけて、米国とイスラエルの「特殊関係」は制度化された。軍事援助は飛躍的に増大し、年間10億ドルから20億ドルへと倍増した。さらに重要なのは、援助の性質の変化であった。単なる武器売却ではなく、最新鋭兵器の優先供与、共同開発、技術移転、そして諜報共有が常態化したのである。F-15戦闘機、F-16戦闘機といった最新鋭機がイスラエルに供与され、イスラエルは中東で圧倒的な航空優勢を確立した。
表4-3: 米国の対イスラエル軍事・経済援助(1970-1979年、単位:百万ドル)
年度 | 軍事援助 | 経済援助 | 合計 | 主要供与兵器 |
1970 | 30 | 40 | 70 | A-4攻撃機追加分 |
1971 | 545 | 55 | 600 | F-4ファントム戦闘機 |
1972 | 300 | 104 | 404 | 装甲車両、ミサイル |
1973 | 307 | 60 | 367 | 通常年間供与 |
1974 | 2,482 | 377 | 2,859 | Yom Kippur戦争後緊急援助 |
1975 | 300 | 598 | 898 | F-15戦闘機初供与 |
1976 | 1,500 | 751 | 2,251 | F-15追加、F-16契約 |
1977 | 1,000 | 785 | 1,785 | F-16初供与 |
1978 | 1,000 | 785 | 1,785 | Camp David合意後援助 |
1979 | 3,000 | 2,121 | 5,121 | Camp David履行支援、大規模軍事近代化 |
合計 | 10,464 | 5,676 | 16,140 | – |
しかしこの「特殊関係」には、重大な代償が伴っていた。米国は、イスラエルの核による脅迫を回避するために、イスラエルの通常戦力での圧倒的優位を保証しなければならなくなった。つまり、イスラエルが「存亡の危機」に陥らないように、常に最新鋭兵器を供与し続ける義務を負ったのである。これは事実上、イスラエルの安全保障に対する無期限の白紙委任状であった。これが「第二の呪縛―Samson Optionの呪縛」の完成であった。
4.4 イラン革命と「負の十字架」の完全単独背負い―1979年という転換点
1979年は、米国の中東戦略、そして米国とイスラエルの関係にとって、決定的な転換点となった年であった。この年に起きたイラン・イスラム革命は、単なる一国の政権交代ではなく、米国が中東で構築してきた戦略的秩序全体を根底から覆す地殻変動であった。そしてこの革命こそが、米国に「負の十字架」を完全に、そして単独で背負わせることになった歴史的事件だったのである。
4.4.1 米国の「双子の柱」戦略の崩壊
1970年代、米国の中東戦略は「双子の柱(Twin Pillars)」政策と呼ばれる構造に基づいていた。その二本の柱とは、イランとサウジアラビアであった。特にイランは、親米的なMohammad Reza Pahlavi国王(シャー)の下で、湾岸地域の安定を保証する最重要拠点であった。
イランが米国にとって持っていた戦略的価値は、多層的であった。第一に、軍事的価値である。イランは、ソ連の南下政策に対する地理的防波堤であった。ソ連国境に隣接するイランが親米政権である限り、ソ連の中東への影響力拡大は阻止できた。米国は、イランに最新鋭兵器を大量供与し、事実上の「地域警察官」として育成していた。F-14トムキャット戦闘機、F-4ファントム、M60戦車、ホークミサイル―イスラエルを除けば、中東で最も強力な軍事力をイランは保有していた。
第二に、諜報的価値である。イランの北部国境地帯には、米国CIAとNSAの諜報施設が設置され、ソ連国内の通信傍受とミサイル実験監視を行っていた。これらの施設は、冷戦期の米国諜報活動の要であった。
第三に、エネルギー安全保障である。イランは日量600万バレルの原油を生産し、ペルシャ湾のホルムズ海峡の安定を保証していた。世界の石油輸送の3分の1がこの海峡を通過しており、その安全はイラン海軍によって守られていた。
第四に、経済的価値である。イランは米国製兵器の最大顧客の一つであり、1970年代には年間数十億ドル規模の武器購入契約を結んでいた。これは米国の軍需産業にとって巨大な市場であった。
表4-4: イランが米国に提供していた戦略的価値(1970年代)
戦略的機能 | 具体的内容 | 米国にとっての重要性 |
対ソ連防波堤 | 2,000km国境でソ連南下阻止 | 冷戦戦略の地理的要 |
諜報拠点 | 北部に米国諜報施設、ソ連監視 | SIGINT(信号諜報)の中核 |
湾岸安定保証 | ペルシャ湾・ホルムズ海峡の安全確保 | 世界石油輸送の3分の1を保護 |
エネルギー供給 | 日量600万バレルの原油生産 | 西側エネルギー安全保障 |
兵器市場 | 年間数十億ドルの米国製兵器購入 | 軍需産業の主要顧客 |
地域警察官 | 湾岸地域の秩序維持役 | 米軍直接展開の代替 |
4.4.2 革命の嵐―1979年1月から2月
1978年後半から、イラン各地でシャー政権に対する抗議デモが激化していた。宗教指導者Ayatollah Ruhollah Khomeiniを精神的指導者とする民衆蜂起は、シャーの秘密警察SAVAKの弾圧にもかかわらず拡大し続けた。1979年1月16日、シャーは国外に脱出した。そして2月1日、パリから帰国したKhomeiniは、数百万人の群衆に迎えられた。2月11日、革命は完全に成功し、イラン・イスラム共和国が成立した。
米国Carter政権は、事態の急速な展開に対応できなかった。Carterは当初、シャー政権の改革を促すことで事態を収拾しようとしたが、革命の勢いはそれを許さなかった。そして革命政権は、強烈な反米姿勢を打ち出した。Khomeiniは米国を「大悪魔(Great Satan)」と呼び、イランの全ての不幸は米国の帝国主義に起因すると糾弾した。11月4日、革命勢力の学生たちが米国大使館を占拠し、52名の外交官を人質に取った。この「人質危機」は444日間続き、米国の無力さを世界に晒し続けた。
4.4.3 失われたもの―戦略的空白の出現
イラン革命により、米国が失ったものは計り知れなかった。軍事的には、ソ連に対する地理的防波堤を失った。ソ連は1979年12月、アフガニスタンに侵攻し、中央アジアでの影響力を拡大した。米国の諜報施設は閉鎖され、ソ連監視能力は大幅に低下した。エネルギー面では、イランの原油生産は激減し、第二次石油危機が発生した。原油価格は1バレル13ドルから40ドルへと3倍に高騰し、世界経済は深刻な不況に陥った。そして軍事的には、イランに供与していた最新鋭兵器がすべて革命政権の手に渡り、一部はソ連に引き渡される危険性すら生じた。
さらに深刻だったのは、地政学的な構造変化であった。中東における米国の影響力の地理的範囲は、劇的に縮小した。革命前、米国はトルコ、イラン、サウジアラビア、エジプト、イスラエルという「弧」で中東を覆っていた。しかしイランの離脱により、この弧は分断された。湾岸地域からレバントに至る広大な地域で、米国が信頼できる同盟国は事実上イスラエルのみとなったのである。
表4-5: イラン革命前後の米国の中東同盟構造比較
地域 | 革命前(1978年) | 革命後(1979年以降) | 変化 |
トルコ | NATO同盟国(親米) | 継続 | 変化なし |
イラン | 最重要同盟国(親米) | 反米イスラム共和国 | 完全喪失 |
イラク | ソ連寄り、敵対的 | イラン・イラク戦争で中立化試み | 限定的接近 |
サウジアラビア | 同盟国(親米) | 継続も不安定化 | イスラム革命の脅威 |
エジプト | Camp David後同盟国 | 継続 | 変化なし |
ヨルダン | 同盟国(親米) | 継続 | 変化なし |
シリア | ソ連同盟国(敵対) | 継続 | 変化なし |
イスラエル | 特殊同盟国 | 唯一の完全信頼可能拠点 | 戦略的価値急上昇 |
4.4.4 イスラエルへの完全依存―「第三の呪縛」の完成
イラン喪失により、米国の中東戦略は根本的な再構築を迫られた。そしてその再構築の中心に置かれたのが、イスラエルであった。革命前、イスラエルは米国にとって重要な同盟国ではあったが、唯一の拠点ではなかった。しかし1979年以降、イスラエルは米国にとって「代替不可能な唯一の戦略的拠点」となったのである。
この変化は、援助額の急増に如実に現れた。1979年度の対イスラエル援助は、前年の17億8,500万ドルから51億2,100万ドルへと約3倍に急増した。これは単なる援助増額ではなく、戦略的依存の制度化であった。米国は、イスラエルの軍事的優位を絶対的に保証する義務を負った。なぜなら、もしイスラエルが弱体化すれば、米国は中東で頼れる拠点を完全に失うからであった。
さらに重要なのは、この依存が米国の外交的自由度を決定的に制約したことである。イラン革命以前、米国はイスラエルに対してある程度の圧力をかける余地があった。もしイスラエルが米国の要請に従わなければ、米国にはイランという代替拠点があったからである。しかし1979年以降、その選択肢は消滅した。イスラエルは、自らが米国にとって「代替不可能」であることを完全に認識し、その立場を最大限に活用するようになった。米国がイスラエルに圧力をかけることは、事実上不可能になったのである。
これが「第三の呪縛―戦略的依存の呪縛」の完成であった。1969年の核密約による「第一の呪縛」、1973年のYom Kippur戦争による「第二の呪縛」、そして1979年のイラン革命による「第三の呪縛」。この三重の呪縛により、米国は「負の十字架」を完全に、そして単独で背負うことになったのである。
表4-6: 「三つの呪縛」の構造
呪縛 | 成立年 | 出来事 | 内容 | 米国への制約 |
第一の呪縛 核密約の呪縛 | 1969年 | Nixon-Meir密約 | イスラエル核保有の黙認と曖昧性政策 | 核拡散を黙認する代償として、イスラエル安全保障への永続的コミットメント |
第二の呪縛 Samson Optionの呪縛 | 1973年 | Yom Kippur戦争 | イスラエルの核使用危機と米国の緊急大規模軍事支援 | イスラエルが「存亡の危機」に陥らないよう、常に軍事的優位を保証する義務 |
第三の呪縛 戦略的依存の呪縛 | 1979年 | イラン・イスラム革命 | 米国の中東最大拠点喪失、イスラエルが唯一の信頼可能拠点に | イスラエルへの完全依存、外交的圧力行使の余地喪失 |
表4-7: 1970-1979年の主要出来事年表
年月 | 出来事 | 米国の対応 | イスラエルの立場 | 戦略的意義 |
1970年9月 | ヨルダン内戦(黒い9月事件) | イスラエルに介入準備要請 | シリア侵攻阻止 | イスラエルの地域安定化機能確認 |
1973年10月 | Yom Kippur戦争勃発 | Operation Nickel Grass緊急空輸 | 核準備態勢(未確認) | 第二の呪縛完成、第一次石油危機 |
1974年 | シリア・エジプトとの停戦協定 | Kissinger「シャトル外交」 | 領土一部返還 | アラブ・イスラエル対話開始 |
1975年 | レバノン内戦開始 | 不介入 | 南部国境警戒強化 | レバノン国家機能崩壊 |
1977年11月 | Sadat大統領エルサレム訪問 | 和平仲介開始 | Begin首相受入 | アラブ連盟内分裂 |
1978年9月 | Camp David合意 | Carter大統領仲介 | シナイ返還合意 | エジプト・イスラエル和平枠組 |
1979年1-2月 | イラン・イスラム革命 | Shah亡命、戦略再構築 | 戦略的価値急上昇認識 | 第三の呪縛完成 |
1979年3月 | エジプト・イスラエル平和条約 | 両国に大規模援助開始 | アラブ世界初の国交 | アラブ連盟、エジプト除名 |
1979年11月 | 米国大使館占拠(テヘラン) | 人質救出失敗 | 米国の弱体化を観察 | 米国の中東での威信失墜 |
1979年12月 | ソ連、アフガニスタン侵攻 | 対ソ強硬姿勢へ転換 | イスラエルの対ソ価値上昇 | 冷戦激化、中東不安定化 |
1979年12月31日、この激動の年が終わった時、米国は新たな現実に直面していた。中東における戦略的構造は一変し、米国はイスラエルに完全に依存する立場となった。この依存関係は、その後40年以上にわたって継続し、2025年のGaza戦争における米国の対応を決定的に制約することになる。イスラエルが何をしようとも、米国はそれを止めることができない―この構造的無力さの起源は、1979年のイラン革命にあったのである。
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