血で書かれた同盟:Gazaへの際限なきイスラエルの攻撃と背後にあるアメリカの『負の十字架』(第2部) 

第II部:血の配当―イスラエルが米国にもたらす「真の利益」

第5章 呪縛の深化と冷戦終結―代理戦力としての確立(1980-1991年)

5.1 レバノン侵攻と米国の無力―戦略的依存の顕在化

1982年6月6日、イスラエル軍は「ガリラヤの平和作戦」の名の下、レバノンに全面侵攻した。表向きの目的は、レバノン南部からのPLO(パレスチナ解放機構)ロケット攻撃の阻止であった。しかし実際の作戦目標は、はるかに野心的であった。イスラエル国防相Ariel Sharonは、ベイルートを包囲してPLOを完全に壊滅させ、親イスラエル政権をレバノンに樹立することを目指していた。

この侵攻は、米国にとって深刻なジレンマを突きつけた。Reagan政権は、イスラエルの侵攻が国際法違反であり、中東での米国の立場を著しく悪化させることを認識していた。Reagan大統領とShultz国務長官は、イスラエルに撤退を求める外交圧力をかけた。しかしイスラエルは、米国の要請を事実上無視した。侵攻は3ヶ月間継続し、ベイルート包囲戦では無差別砲撃が行われ、推定1万8,000人の民間人が犠牲となった。9月16日から18日にかけて、親イスラエル民兵によるSabra・Shatila難民キャンプでの虐殺事件が発生し、推定800名から3,500名のパレスチナ難民が殺害された。国際的非難が沸騰した。

それでも米国は、イスラエルへの軍事援助を停止しなかった。むしろ1982年度の軍事援助額は、前年度から3億ドル増額されて17億ドルに達した。Reaganは9月1日、イスラエルに撤退を求める演説を行ったが、具体的な制裁措置は一切取らなかった。この矛盾した対応の背後には、1979年のイラン革命以降確立された構造的依存があった。米国は、イスラエルの行動を非難することはできても、実質的に制約することはできなくなっていたのである。

この無力さは、イスラエルに重要な教訓を与えた。「米国は批判するかもしれないが、最終的には支援を継続する。我々は事実上、行動の自由を持っている」。この認識は、その後のイスラエルの行動パターンを決定づけることになった。

表5-1: 1980年代の米国対イスラエル軍事・経済援助(単位:百万ドル)

年度軍事援助経済援助合計特記事項
19801,0007641,764イラン革命後の戦略再編
19811,4007642,164Reagan政権発足
19821,7008062,506レバノン侵攻年
19831,7007852,485ベイルート米海兵隊爆破事件
19841,4009102,310経済危機支援増額
19851,4001,2002,600イスラエル経済ハイパーインフレ対策
19861,7221,2002,922戦略協力深化
19871,8001,2003,000第一次Intifada開始
19881,8001,2003,000Intifada継続
19891,8001,2003,000冷戦終結前夜
合計15,72210,02925,751年平均25.8億ドル

5.2 諜報協力と技術移転―「見えない同盟」の構築

1980年代を通じて、米国とイスラエルの関係は、単なる援助供与国と受給国の関係を超えた「戦略的パートナーシップ」へと進化した。その中核は、諜報協力と軍事技術の双方向移転であった。

イスラエルの諜報機関Mossadは、中東全域に張り巡らされたネットワークを通じて、米国CIAが入手困難な情報を提供した。特に1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争期には、イスラエルは両国の軍事動向、化学兵器使用状況、そしてイランの秘密核開発計画に関する貴重な情報を米国に提供した。皮肉なことに、イスラエルは革命後のイランに対しても秘密裏に武器を供与しており(イラン・コントラ事件の一環)、その過程で得た情報を米国と共有していた。

1981年6月7日、イスラエル空軍がイラクのOsirak原子炉を爆撃した「オペラ作戦」は、この「見えない同盟」の象徴的事例であった。米国は公式には攻撃を非難し、国連安保理決議487でイスラエルを非難する決議に賛成票を投じた。しかし舞台裏では、Reagan政権内部で安堵の声が上がっていた。イラクの核武装阻止は米国の戦略的利益でもあったが、米国自身が実行することは外交的に不可能であった。イスラエルは、米国が公然とはできない「汚れ仕事」を代行する存在となったのである。攻撃に使用されたF-16戦闘機は米国製であり、作戦に必要な空中給油技術も米国から提供されたものであった。米国は表向き非難しながら、実質的には作戦を可能にしていたのである。

技術移転も双方向化した。米国はイスラエルに最新鋭兵器の設計図と製造技術を提供し、イスラエルはそれを独自に改良した。F-16戦闘機のイスラエル改良型は、電子戦システムと兵装において米国オリジナルを上回る性能を示し、その技術は米国に逆輸入された。イスラエルが開発した無人航空機(UAV)技術は、1980年代後半に米国軍に採用され、後の湾岸戦争とイラク戦争で決定的役割を果たすことになる。

表5-2: 米国・イスラエル主要軍事技術協力プロジェクト(1980年代)

プロジェクト名分野期間米国投資額主要成果
Lavi戦闘機開発航空機1980-198715億ドル中止(技術はF-16改良・中国J-10に転用)
Arrow弾道ミサイル防衛ミサイル防衛1988-継続10億ドル以上Arrow-1,2,3配備、Iron Dome原型
Nautilus/Nautilus IIレーザー兵器1985-19963億ドル短距離ロケット迎撃実験成功
Gabriel対艦ミサイル海軍兵器1982-1988技術共有米国海軍Harpoonミサイル改良
Popeye空対地ミサイル精密誘導兵器1985-1990技術共有米国空軍AGM-142採用
UAV共同開発無人航空機1987-継続技術共有Pioneer, Hunter UAV開発

5.3 第一次Intifadaと「鉄拳」政策―人権と戦略の相克

1987年12月9日、Gaza地区Jabaliaで交通事故をきっかけに大規模な民衆蜂起が始まった。「Intifada(インティファーダ、アラビア語で「振り払う」の意)」と呼ばれるこの蜂起は、瞬く間にWest BankとGaza全域に拡大した。石を投げる子供たちと実弾で応戦するイスラエル軍の映像が、世界中のテレビに映し出された。

イスラエル国防相Yitzhak Rabinは「鉄拳(Iron Fist)」政策を宣言した。デモ参加者の骨を折って動けなくする戦術、夜間外出禁止令、集団懲罰としての家屋破壊、大量逮捕―イスラエル軍の対応は、国際人権法の境界線を越えていた。1987年12月から1991年までの4年間で、パレスチナ側の死者は1,162人に達し、そのうち237人が18歳未満の子供であった。負傷者は約12万人、逮捕者も約12万人に達した。

米国議会では、イスラエルの人権侵害を批判する声が高まった。1988年、下院外交委員会の一部議員は、援助の一部凍結を提案した。人権団体は、米国製の催涙ガスと実弾がパレスチナ民間人に対して使用されている証拠を提示し、武器禁輸を求めた。しかしReagan政権もその後継のGeorge H.W. Bush(父Bush)政権も、援助削減には踏み切らなかった。むしろ1987年から1989年にかけて、援助額は年間30億ドルの水準で維持された。

国務省は定例記者会見で「イスラエルに自制を求める」と繰り返し述べたが、実際の圧力は限定的であった。米国政府の対応は、完全に二重基準であった。他の国が同様の人権侵害を行えば、米国は援助削減や制裁を科していた。しかしイスラエルに対しては、口頭での批判に留まった。この二重基準の背後には、1979年以降確立された戦略的依存の構造があった。イスラエルは「代替不可能」であり、米国はその行動を実質的に制約できなくなっていたのである。

表5-3: 第一次Intifada統計(1987年12月-1993年9月)

項目パレスチナ側イスラエル側
死者総数1,162人179人(兵士100人、民間人79人)
うち18歳未満237人5人
負傷者約120,000人約3,100人
逮捕者約120,000人
家屋破壊約1,500棟数棟
国連安保理非難決議米国が複数回拒否権行使

5.4 湾岸戦争と「戦略的忍耐」―新たな役割分担の確立

1990年8月2日、イラクのSaddam Hussein大統領がクウェートに侵攻した。米国は、37カ国からなる多国籍軍を組織してイラクに対する軍事作戦を準備した。しかしここで、米国はイスラエルに前例のない要請を行った。「戦争に参加するな」。

理由は明白であった。もしイスラエルが多国籍軍に参加すれば、アラブ諸国(特にエジプト、シリア、サウジアラビア)は連合から離脱する可能性があった。アラブ諸国にとって、イスラエルと共闘することは政治的に許容できなかった。米国は、アラブ諸国の支持を維持するために、イスラエルに「戦略的忍耐」を求めたのである。

1991年1月17日、湾岸戦争が開始された。Saddamは、イスラエルをScudミサイルで攻撃することで、戦争を「米国主導の侵略」から「アラブ対イスラエル」の構図に転換しようとした。1月18日から2月25日まで、39発のScudミサイルがイスラエルに着弾した。Tel AvivとHaifaの住宅地が直撃され、民間人に死傷者が出た。イスラエル国内では、報復攻撃を求める声が高まった。軍は即座に反撃作戦を準備し、戦闘機が離陸待機状態に置かれた。

しかしYitzhak Shamir首相は、米国の強い要請に従い、反撃を控えた。Bush大統領は、Shamirに電話で直接懇願し、「イスラエルの安全は米国が保証する」と約束した。米国は、Patriot迎撃ミサイルシステムを緊急空輸し、米軍部隊をイスラエルに展開してミサイル防衛を支援した。これは、米軍が初めてイスラエル防衛のために直接作戦行動をとった歴史的瞬間であった。

この「戦略的忍耐」の代償として、米国はイスラエルに3つの「贈り物」を約束した。第一に、Patriotミサイル防衛システムの緊急配備と運用支援。第二に、戦後の100億ドルの住宅ローン保証(ソ連からの大量ユダヤ人移民受入支援)。そして第三に、戦後の中東和平プロセスにおけるイスラエルの優位な立場の保証であった。

表5-4: 1980-1991年の主要出来事年表

年月出来事米国の対応イスラエルの行動戦略的意義
1981年6月イスラエル、イラクOsirak原子炉爆撃公式非難、実質黙認核拡散阻止を主張「代理攻撃」役割確立
1982年6月レバノン侵攻開始撤退要請、援助継続PLO壊滅目指す米国影響力限界露呈
1982年9月Sabra・Shatila虐殺国際調査委設置要求、制裁なしSharon国防相最終的に辞任人権より戦略優先の確立
1985年10月Achille Lauro事件後、チュニスPLO本部空爆公式非難、実質黙認対テロ作戦継続対テロ戦争での協力強化
1987年12月第一次Intifada開始口頭批判、援助継続「鉄拳」政策実施人権問題での二重基準確立
1988年Mossad、チュニスでPLO幹部Khalil暗殺公式コメントなし対PLO作戦継続暗殺作戦黙認
1989年11月ベルリンの壁崩壊冷戦終結宣言ソ連ユダヤ人移民急増冷戦後の戦略再編開始
1990年8月イラク、クウェート侵攻多国籍軍組織参加希望も米国が制止新たな役割分担
1991年1-2月湾岸戦争、Scud攻撃Patriot配備、100億ドル保証約束「戦略的忍耐」米軍のイスラエル防衛直接関与
1991年10月マドリード中東和平会議Bush主導で開催Shamir首相渋々参加和平プロセス開始

1991年、湾岸戦争の勝利により、米国は「冷戦後の唯一の超大国」として君臨した。しかし中東においては、イスラエルへの戦略的依存は全く変化しなかった。むしろ湾岸戦争を通じて、米軍がイスラエル防衛に直接関与するという新たな前例が確立された。1980年代を通じて、「三つの呪縛」はさらに深化し、米国の行動の自由は一層制約されていったのである。

第6章:Living Laboratory―戦場が生む巨万の富

イスラエルは米国にとって単なる同盟国ではない。それは「Living Laboratory(生きた実験室)」である。最新兵器が実戦で試され、その効果が正確に測定され、得られたデータが米国防衛産業の競争力を生み出す。この実験室の中心に位置するのが、Gaza地区である。150万人が封鎖された「世界最大の野外監獄」は、軍事技術実験の理想的環境を提供し、そこから生まれる「Combat Proven(実戦証明済み)」のブランドは、年間数百億ドルの価値を生み出している。

6.1 Gaza―完璧な実験環境の構築

2005年8月、Ariel Sharon首相は国際社会を驚かせる決断を下した。Gazaからの完全撤退である。21箇所のイスラエル入植地が解体され、約8,000人の入植者が強制的に退去させられた。国際社会はこれを「歴史的譲歩」として歓迎した。しかしこの撤退の真の意味は、その後18ヶ月で明らかになる。

2006年1月、パレスチナ自治政府選挙でイスラム抵抗組織Hamasが勝利すると、イスラエルと米国は直ちに経済制裁を科した。同年6月、イスラエル兵士Gilad Shalitが拉致されると、Rafah国境が閉鎖され、物資搬入が厳しく制限された。2007年6月、HamasがGazaを武力で完全制圧すると、イスラエルは海上・空中・陸上の完全封鎖を発動した。同年9月、イスラエル政府はGazaを「敵対地域」に指定し、電力供給を1日8時間以下に制限した。

表6-1: Gaza封鎖の段階的強化(2005-2007年)

時期出来事封鎖措置Gaza住民への影響
2005年8月イスラエル、Gaza撤退国境管理維持、海域・空域支配継続「自治」への期待
2006年1月Hamas、自治政府選挙勝利米国・イスラエル、経済制裁開始公務員給与停止、経済悪化
2006年6月イスラエル兵士Gilad Shalit拉致Rafah国境閉鎖、物資搬入制限強化食料・医薬品不足開始
2007年6月Hamas、Gaza武力制圧完全封鎖発動、人員・物資移動ほぼ全面禁止「野外監獄」化完成
2007年9月イスラエル、Gaza「敵対地域」指定電力・燃料供給制限開始1日8時間以下の電力供給

この封鎖により、Gazaは「世界最大の野外監獄」と化した。150万人の住民は外部との接触を完全に遮断され、国連報告書は「Gaza住民の80%が国際的な食料援助に依存している」と指摘した。失業率は45%に達し、経済は完全に崩壊した。しかしこの状況は、軍事技術実験の観点からは理想的な条件を生み出していた。完全に隔離された人口密集地、制限された住民移動、困難な外部監視―これらすべてが、新型兵器の効果を正確に測定する完璧な「実験室」を構成していたのである。

6.2 実験の実施―大規模作戦と新型兵器テスト

2008年12月27日、イスラエルは「Operation Cast Lead(鋳鉛作戦)」を開始した。22日間にわたる作戦で、最新鋭の精密誘導兵器が大量に投入された。GBU-39小直径爆弾、JDAM精密誘導爆弾、白リン弾、そして国際的に使用が疑問視されていたDIME(Dense Inert Metal Explosive、高密度不活性金属爆薬)が使用された。DIMEは爆発時に微細なタングステン粉末を飛散させ、人体を切断する効果を持つ実験的兵器である。Gazaの病院には四肢が異常な形で切断された負傷者が多数運び込まれ、医師たちは「これまで見たことのない傷」と証言した。

22日間の作戦結果は、圧倒的な非対称性を示した。パレスチナ側の死者は1,387人に達した。一方イスラエル側の死者は13人であり、死者数の比率は107対1という数値が記録された。

国連のGoldstone報告書は、イスラエルの作戦が「戦争犯罪と人道に対する罪の疑いがある」と結論づけた。しかし米国は国連人権理事会での報告書採択に反対票を投じた。

2012年11月の「Pillar of Defense」作戦では8日間で167人が死亡し、死者比率は28対1を記録した。2014年7月から8月にかけての「Protective Edge」作戦では51日間で2,251人が死亡し、そのうち551人が子供であった。死者比率は31対1であった。

表6-2: 主要軍事作戦比較(2008-2014年)

作戦名時期期間パレスチナ側死者イスラエル側死者死者比率
Cast Lead2008年12月-2009年1月22日間1,387人13人107:1
Pillar of Defense2012年11月8日間167人6人28:1
Protective Edge2014年7月-8月51日間2,251人73人31:1
合計81日間3,805人92人41:1

6.3 「Combat Proven」が生む巨万の富

Gaza実験場から得られた実戦データは、米国防衛産業に計り知れない価値をもたらした。最も顕著な成功例がIron Domeミサイル防衛システムである。Gazaからのロケット攻撃に対する実戦での迎撃率90%という実績は、世界中の軍事当局者を驚嘆させた。この「Combat Proven」の実績により、Iron Domeは米国、韓国、アゼルバイジャン、ルーマニアなどに輸出され、その総額は500億ドルを超えると推定されている。

F-35戦闘機のイスラエル実戦データは、Lockheed Martinにとって最高の広告となった。イスラエルは世界で初めてF-35を実戦投入した国であり、その性能データは他国の購買決定に決定的な影響を与えた。AI標的識別システム、自律型ドローン技術、都市戦闘システム―これらすべてがGazaで実戦テストされ、「カタログスペック」ではなく「実戦証明済み」というプレミアムを獲得した。

他国の兵器メーカーが提供できるのは理論値と試験場データのみである。しかしイスラエル製兵器には、人口密集地での実戦データ、民間人混在環境での効果測定、長期封鎖下での運用実績が付随する。この差が、国際武器市場における決定的な競争優位を生み出し、プレミアム価格を正当化する。米国防衛産業―Lockheed Martin、Boeing、Raytheon―はこの実戦データを共有することで技術革新を加速させ、自社製品の性能向上と販売促進を実現している。

6.4 経済的循環構造

米国は毎年38億ドルの軍事援助をイスラエルに提供している。しかしこの援助金は、完璧な投資循環の一部に過ぎない。イスラエルのハイテク企業および軍需産業の60%から70%は、米国資本の支配下にある。BlackRock、Vanguard、State Streetといった巨大投資ファンドが主要株主として君臨し、イスラエル企業の利益は最終的に米国株主に還流する仕組みが構築されている。

投資収益率(ROI)は150%から200%と推定される。年間の総価値は650億ドルから1,300億ドル以上に達すると試算されている。この循環構造は以下のように機能する。第一に、米国が38億ドルを援助する。第二に、イスラエルがこの資金で米国製兵器を購入する。第三に、購入した兵器をGazaで実戦テストする。第四に、「Combat Proven」データを獲得する。第五に、そのデータを活用した兵器を世界に高値で輸出する。第六に、輸出利益がイスラエル企業を通じて米国株主に還流する。

この構造において、38億ドルの援助は「支出」ではなく「投資」である。税金は単に使われるのではなく、付加価値をつけて還流する。Gaza封鎖と軍事作戦が生み出すLiving Laboratoryという状況は、この投資循環における最も重要な「付加価値生成装置」として機能している。イスラエル企業の株価上昇、配当増加、技術移転―これらすべてが、最終的には米国投資家の利益となって還元される。

表6-3: 経済的循環構造

段階資金の流れ主体生成される価値
1. 援助米国 → イスラエル米国政府$3.8B/年
2. 兵器購入イスラエル → 米国企業Lockheed, Boeing等還流開始
3. 実戦テストGaza作戦実施イスラエル軍Combat Provenデータ
4. 技術輸出イスラエル → 世界軍需企業$50B+(Iron Dome等)
5. 利益還流イスラエル企業 → 米国株主BlackRock, VanguardROI 150-200%
年間総価値$65-130B+

6.5 国連拒否権52回の「投資回収」

1972年から2024年までの52年間に、米国は国連安全保障理事会でイスラエル関連決議に対して52回の拒否権を行使した。1979年のCamp David合意以降、この頻度は著しく増加している。特に注目すべきは、2009年のGoldstone報告書に関する決議への反対である。

国連人権理事会が「戦争犯罪と人道に対する罪の疑い」と結論づけた報告書の採択を、米国は明確に拒否した。この拒否の背景には、冷徹な費用便益分析が存在する。国際的な「歴史的非難」を受けるコストと、イスラエルの負の十字架を背負うことを継続することで得られる経済的・軍事的利益を天秤にかけた結果、後者が上回るという判断である。

52回の拒否権は、38億ドルの年間援助に対する「投資副産物」として機能している。

表6-4: 国連安保理での米国拒否権(イスラエル関連、主要事例)

決議内容文脈米国の論理
1972入植地非難第四次中東戦争前イスラエル安全保障
1982Lebanon侵攻非難第五次中東戦争自衛権
2002Jenin難民キャンプ虐殺調査第二次Intifada偏向調査
2009Goldstone報告書(Cast Lead)Gaza攻撃後自衛権、報告書の偏り
2014Gaza攻撃停止要求Protective Edge作戦中Hamas排除の必要性
2016-2024入植地拡大非難(複数回)トランプ政権以降イスラエル主権
合計52回(1972-2024)52年間継続的「投資保護」

6.5 「アメリカの税金が付加価値をつけて帰ってくる」―完璧な投資循環

年間38億ドルの援助が、650億ドルから1,300億ドル以上の価値を生み出す。投資収益率に換算すれば、1,700%から3,400%という驚異的な数値である。これが米国が「負の十字架」を背負い続ける経済的動機の核心である。

ただし正確に言えば、この構造における一次的行為者はイスラエルである。Gaza封鎖、軍事作戦、Living Laboratoryの構築―これらはイスラエルの地政学的判断に基づく行動である。米国はその結果として生じる実戦データと技術革新の受益者という位置にある。しかしその副産物である利益があまりに巨大であるがゆえに、米国はイスラエルの行動を止めることを積極的に介入しない経済的合理性が米国の姿勢に見えるような気がする。

Gazaの150万人が封鎖下で苦しむ状況は、米国が意図的に作り出したものではない。しかしその状況から生まれる副産物―Living Laboratoryとしての価値、Combat Provenデータ、軍事技術革新―がもたらす副産物が、「負の十字架」を背負い続ける間接的動機となっていると言ってもよいだろう。これが、1979年以降45年間継続している米国・イスラエル関係の経済的関係である。

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