豊洲での思い出
入社前
入社前、大学時代の成績は中程度、Aの数も目立って多い訳ではなく、就職に決して優位な成績ではなかった。
その中で、大学の就職部が何社か紹介してくれたうちで、社会人の父親が唯一、「そこなら、いいだろう。」と言ってくれた会社が、石川島播磨重工業、現、株式会社IHIであった。
小生の就職活動時、造船不況の真っただ中で、その最中に就職活動を行い、幸いなことに入社をすることができた。
小生も就職活動をしながら、8月11日の最後のボディビルの大会に向けて調整真っ最中だったので、大会の2週間前ぐらいに豊洲に最終面接行った時も、その昼休みの天気が本当に良かったので、豊洲の事務所の屋上で、日光浴をした記憶もある。
面接当時、未だ造船好景気時代の設備が残っていて、豊洲総合事務所の脇にあった、病院や生協も社員のみならず、その家族も含めて利用できるような結構な施設を有していた。
それが、昭和61年、4月に入社した時は規模がかなり縮小されていて、不景気なんだという事を印象付けられた記憶が残っている。
入社後とその経歴
1986年、昭和61年4月に石川島播磨重工業に入社して、2008年2月末日まで、22年間お世話になった。
IHIでの小生の業務における経験は、自分のプロフェッショナルを決定づける重要な位置づけがある。
特にK社向け姫路LNG管理所向け、新中央制御室更新工事と高圧気化器増設工事における、2年近いこのプロジェクトに関わった、さまざまな人との出会いは、自分の人生を決めたといっていい現地駐在と赴任であって、この経験と出会いがなかったら現在の仕事はできていなかったし、全く違う人生を送っていたに違いない。
そして、ここで、自分のIHIにおける経歴を紹介したい。
1986年7月、プラント事業部の配管設計に配属
1988年7月、その当時、設計人材が不足していた電気計装設計部に転籍
1991年7月、建設部門において、電気計装工事の専門家を育てたいという、建設部門の要望が高まり、電気計装設計部から建設部に転籍することになった。
この背景には建設部に転籍になる1年ぐらい前から、K社向け姫路LNG管理所の中央制御室のDCS化というプロジェクトが客先へのプロポーザルから見積と進行していて、いよいよ受注となり、建設部が計装制御を中心としたこの大型工事に対応するための建設部門の人材確保という背景もあった。
このような背景から、91年7月、3年の電気計装設計での業務から、その後の天職となる建設部門へ転籍となった。
豊洲の変遷
1997年まで
写真は豊洲の変化で、Google Earthで見れる一番古い、‘97年、この写真ではもうNTTデータセンターのビルが建っている、本当は角地にあった旧生協や運動会をおこなったグランドが映っている状況が一番懐かしい。。
上に昭和40年代の写真を紹介したが、小生が入社した当時の昭和61年には、角の生協の裏に社宅後のグラウンドが残っていて、そこで運動会とかしたものである。
その運動会はもちろん日曜日に行われ、終わると宴会になった。
記憶では生協を取り壊して有楽町線の駅になったので、グラウンドも取り壊されたという順番になるはずだが、その運動会で酔っ払った同期が有楽町線を乗り過ごし、東武東上線の最果ての駅まで行ってしまったという記憶もあるので、どちらが正しいのかは記憶が定かでない。
なにせ、三十数年前の話である。
また、この写真には豊洲寮も、もう写っていない。
豊洲寮も配管設計時代に可愛がっていただいた、直上のY先輩が住んでいたこともあり、同期3人と良く遊びに行ったし、寮に夕食を食べにいったりもした。
本当にバブル前の日本は幸せな時代だったと思う、バブル後に産まれたり、入社された皆さんはそういう当たり前の日本を知らないという事は本当に残念なことだと思う。
2003年ごろ
次はメキシコに赴任する前の2003年の豊洲。
この6年、豊洲にも小生にも大きな転機があった。
会社の状況変化
- 東京第一工場、東京第二工場、技術研究所の廃止
- 豊洲再開発の本格的開始
- 豊洲総合事務所の廃止
- IHI本社ビルの建設
仕事の状況変化
- 海外プロジェクトでのインドネシア初駐在
- 続いてのフィリピンでの駐在
- アイルランドでの欧州滞在経験
- メキシコプロジェクトの受注とオイルメジャーとのプロジェクト
そして、2003年にメキシコに赴任になる。
2000年代前半、豊洲エリアはドラマティックな変化があった。
東京第一工場、第二工場、研究所が売却され、豊洲の再開発が決まった。
小生もインドネシアの駐在で、98年4月から99年の12月まで、また、2000年10月からはフィリピンの建設で駐在、その後、しばらく豊洲に勤務し、2003年の6月から、T社のマルチパーパス医薬プラントの工事で、イギリス、レディングからアイルランドへ駐在となる。
その間にメキシコのアルタミラが受注となり、メキシコへと赴任。
プロジェクトを終えて、帰ってきたときには思い出深い豊洲総合事務所は影も形もなくなっていた。
2006年頃
次にメキシコの大型LNG案件のプロジェクトを建設所長という立場で終え、最も天狗になっていた時期。
新しいIHIの本社ビルは慣れなかった。
器は新しくなっても中身が変わるものではない、どうしても浮いた感じの毎日だった。
周りの開発は目を見張る進捗であり、あの都会から離れた工業地帯だった豊洲があれよあれよとオシャレな都市開発された街、そして、ショッピングモールや住宅街に変化していった。
個人的にも小生がメキシコに駐在している間、奥さんの実家のマンションに自宅を購入し、横浜から、会社のある江東区民になっていた。
いままで、1時間半掛けて通っていた通勤が、バスで40分になり、都内の便利さを痛感したものである。
2008年頃
2008年にマカオのLNGの開発会社にヘッドハントされ、22年勤めたIHIを退社したころの豊洲である。
ショッピングモールや高層マンションが建ちならび、だいぶ開発も完了し、豊洲が大変貌を遂げたころである。
IHIもさまざまは困難があり、そういったことも全く影響なかったわけではなく、2008年2月ENDをもって、22年間のIHI社員生活に終止符を打った。
現在の豊洲
最後は現在の2020の豊洲である。
もう全く昔の面影はない。
寂しいものである。
たまに豊洲を訪れて、その昔の名残を認められるのは、豊洲の地下鉄の駅の拡張前の改札ぐらいではないか?
そのほかはすべてが新しく、全く真新しいものばかりである。
こう見てみると、日本という国は凄いものだとおもう、東京という都心であり、大都会を完全に再開発し、新しい街を産みだす。
豊洲だけではない、八重洲等々さまざまな街が再開発され、生まれ変わり、新しい形の街を作っている。
しかしながら、新しい街になって、綺麗で便利になったが、入社前、そして、さまざまな思い出がり、地下鉄、有楽町線の通る前の都会の孤島と言われた豊洲の方が小生には豊洲らしい。
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