- 自分の生涯の仕事として選んだ建設技術を中心にしたプロジェクトマネージメント
- その仕事との出会い共に、この時期は自分の人生の大きなターニングポイントでもあった
- どうしようもない学生上がりの会社員ぶった社員がどうして”プロ”になれたのか?
- この時期に出会った人たちが大きな影響を与えてくれた
K電力 姫路LNG管理所 高圧気化器増設及び新中央制御室更新工事
建設部での初めてのプロジェクト
1991年に電気計装設計部から建設部に移籍になり、移籍後から担当した、K電力姫路LNG管理所 高圧気化器増設及び新中央制御室更新工事を担当している期間中に、
- 初めての現場駐在
- 自宅以外の地での滞在
- 結婚、長女誕生
- 自動車運転免許取得、そして、交通事故の経験、等々
多くの人生のイベントをこの現場駐在中に経験した。
そして、ここで一番、重要だったイベントは、このプロジェクト後、自分の一生の仕事である、プロジェクトマネージメント、そして、建設というプロフェショナルとの出会いであった。
この一生の出会いに欠かせないのは、その建設の師匠である、松田善治所長との出会い、そして、また、現場に対する姿勢の師匠である、南雲敏彦品管との出会いである。
この2人に出会わなかったら、今の自分は絶対にないだろう。
それははっきり言える。
初めての建設現場の駐在、建設の師匠との出会い
この工事において、会社は小生をこの工事を担当することで、前の部門での経験である電気計装設計のキャリアを生かし、この工事のメインである「電気計装工事」に関する能力を期待していた。
また、小生のキャリアという観点からも、当初よりこの工事において、現場に派遣されることが決まっていた。
そして、この工事で、所長に選任されていたのが、松田善治所長であった。
松田所長は建設部たたき上げの所長。
そんな、松田所長の下に派遣されたのだが、そういう経歴の松田所長は、もちろん大変厳しい人で、彼の当時の上司である建設部長の内田充部長に、「あんな役立たず(小生のこと)は、金の無駄だからいらない」とはっきり言っていて、また、その部長に「1か月で東京に帰す。」とはっきり言っていたようである。
若造の小生なんか彼には全くの「役たたず」だったろう。
しかし、事実は奇なるもので、その後、その松田所長からは派遣期間の度重なる、延期、延期を申し渡され、その後、予定を1年以上延期した2年間駐在することになる。
この人の厳しさは自分の建設に対する経験から来ている、松田所長は若いときに、マレーシアに建設現場赴任になり、その現場赴任中に運転中の機械に巻き込まれ、右手を肩から先を失ってしまっていた。
本人曰く、その後はしばらく荒れたようだが、建設現場に復帰し、その後は、海外の大型セメント工事を中心に数々の大型海外工事の現地所長を務めあげてきたという、本当の「たたき上げの現場の所長」なのだ。
しかし、この人からはいろいろ学んだ、建設管理に関する全てのことはこの人から学んだと言っても過言ではない、建設プログレス管理方法、建設スケジュールの書き方、原単位の算出方法、現場の見方、全てこの人から直接学んだ。
最初は「1か月で帰す!!」と建設部長に豪語していた松田所長がなぜ、小生を気に入り、2年に伸びたのは今後、紹介していきたいと思うが、とにかく、この松田所長の建設管理技術の教育、そして、その修得後の小生は、完璧に「今の自分」が出来上がったのである、彼も小生のことを、いつも「最後の弟子」と言って、この仕事のあともずっと可愛がってくれていた。
小生にはいつも捨てる神あれば、拾う神がいた
ただ、この厳しい、厳しい松田所長との人間関係だけでは、その厳しさで小生は現場で業務を絶対に続けることはできなかったであろう、このことは確実に言える。
しかし、そういう辛い目にあっていた時に、南雲敏彦さんのような救いの神が現れてくれ、そしてこの人も、また、現場の超プロで、その超プロが辛かったころの自分に、毎日、優しく小生に建設のイロハを導いてくれた。
通常だったら絶対にそんな大卒のキャリア教育だけの目的で来た、生意気な若造に手を差し伸べるような人は現場にいない、絶対に居ない。
それが、幸い、この現場には拾う神の南雲さんという方が小生を拾ってくれて、現場に馴染ませてくれたのだ。
実際、この南雲さんが、この現場ににいなかったら、松田所長の厳しさに耐えられずに、小生から辛くて帰ると言っていたであろう。
だから、硬の松田、柔の南雲の存在が小生の建設管理技術を作ったし、両者には足を向けて寝ることができない。
(しかし、その南雲さんをその後、裏切ってしまうことになる、本当に申し訳ないと思っている。。もちろん、今では本人は忘れてくれているが。)
現場生活の開始
1992年5月、本格的に現場に乗り込んだわけであるが、松田所長の「小生のこと眼中なし」は態度から出ていて、その所長下の組織の監督さん達も、もちろん同様の態度であった。
その後、松田所長はすべての建設管理の「師」となっていくのだが、彼曰く、現場とは建設所長を社長とする会社と同じだから、いろんなことに気をつけろ、と、その後口酸っぱく教わったものである。
その社長である現場所長が「干した」のだから、その毎日たるやシンドイ毎日だった、もちろん、小生も実力も何もなく、ただ、IHI本社の建設部の若造がキャリアで派遣されてきた、という位置づけということは自分も分かっていて、居心地は決して良いものではなかった。
その時、救ってくれたのが南雲さんである。
10時の職人の休憩時間になると、「Kやん、現場に一緒に行こう、」と誘ってくれて、その時、彼の一番重要だった大口径送ガス管の溶接品質を確認に一緒に連れて行ってくれ、その時に逐一、配管の建設に関することをいろいろ教えてくれたのだ。
これが結構、楽しく、「配管の据付けってこういうもんなんだ」とか、「溶接工の仕事ってこういう仕事なんだ」等々、いろいろ勉強できた。
その時によく南雲さんが言っていたのは、「IHI(元請)のヘルメットかぶっていると、職人達が意識するだろ、だから、休憩時間に見に行くのが良いんだよ」と言っていた、しかし、彼の意識の中には、「IHIのご本社から来た若造が何も知らないで」と職人に思わせないようにする彼なりの小生に対する教育の気遣いがあったと思っている。
それぐらい南雲さんという人は気遣いのできる優しい人だった。。そんな感じで、毎日決まった仕事がなく現場にいたのだが、南雲さんに現場の楽しさを少しづつ教わり、毎日変化する「現場」というものが大変興味深いものになり、そして、大口径管の溶接の火を半日もじっと見ていると、その進捗が結構、定量的であることが見えてきた。
配管工事のプログレス管理の修得
その結果、自分で現場の現場プログレスを記録するようになったのだ。
足場、機器据付、現場の進捗を小さなノートに書きこみ、その日の変化を全て書き込んで記録するようになった。
何せ、所長は意図的に仕事を与えず、ダメになって帰ることを目的としているのだから、時間はいっぱいあるし、なんでも自分の自己裁量でできた。
そして、最終的に行きついたのは、現場のすべての配管工事の肌合わせ、溶接の状況を施工図に書き込み、週2回、配管工事の肌合わせ完了、および溶接完了状況をまとめ、そしてその進捗をプログレスカーブとして、その予測カーブを作成し、そのレポートを週2回、所長に報告するようになったのだ。
これはあの厳しい松田所長も大変喜び、その配管工事のプログレス管理をするようになってから、松田所長の小生に対する態度が日に日に変わってきたのだ。
これも全て、南雲さんが現場を見るということの基本を教えてくれたからできたことであって、絶対に南雲さんがいなければ、こういうプログレス管理をするということはしなかったであろう。
配管プログレス管理の波及
この工事の請負体系は、IHIが元請けだが、JGC(日揮)に機械工事を、ほぼ丸投げの形のサブコン契約をしていた。
この契約は配管工事を含めた機械工事の範囲全てであり、もちろん工事管理もすべてJGCの範囲であったので、客先であるK電力も天下のJGCさんに対して、さまざまな工事の管理状況を、元請けであるわが社を通さず直接コンタクトする状況だった。
しかし、小生が興味本位で始めた配管プログレス管理は、直接、小生が自分の目で調べた、現場の生のデータが即、数値データとしての報告が上がってくるので、基本的に検査データをまとめている、JGCのプログレス管理データより3日程度早い報告が所長に上がっているので、松田所長のみならず、客先までJGCの配管プログレスデータより、小生のプログレスデータに信頼を置くような状況になってしまった。
そして、ある日、客先への面目を失ったJGCの所長が「迷惑だからやめて欲しい」とクレームまで来た。
しかし、こっちは元請けで、まして客先まで信用されている、サブコンのクレームで止める理由なんかまったくない。。この配管プログレス管理手法の修得はその後の小生の大きな宝になった。
下の写真は地元の「灘のけんか祭り」で有名な松原八幡神社。。
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