大学入学!!
大学時代の大学生活はこれと言って特筆することはない、しかし、入学直後に入会を決めていた、トレーニングセンターサンプレイへの入会は今でも続く自分の人生の大事なイベントの一つである。
トレーニングセンターサンプレイ、その頃からボディビルをやるものとしては、その名前を知らないボディビルダーは日本にはいないと言っても過言ではないだろう。
会長の宮畑豊会長、成長著しかった、石井直方さん、上原隆一さん、佐藤啓二さん、関口敏夫さんや、学生の新人、高西文利さん等々、当時のミスター日本の上位、ミスター東京の上位常連選手が多数輩出されていた、その当時から、事実上、日本一のジムと言っても過言ではないジムであった。
そして、確か、入学式を終えてその足で、今でもある佐藤ビルの4階のトレーニングセンターサンプレイの門をたたき、入会の申込を行い、その頃からはやしたヒゲの宮畑豊会長自ら、小生の入会手続きと会員証の発行を行ってくれた。
サンプレイとはそれ以来、現在まで付き合いは続き、全く関係なかったのだが、会長には結婚の際に仲人まで引き受けていただいた、このようにサンプレイとの関係は小生の人生の宝である。
今思い返しても、宮畑豊会長や石井直方さんのような日本のトップの考え方、物事に対する取り組み方というのは本当に自分の人生の勉強になった。
この2人のボディビルの伝説にはさまざまな話があるが、小生は今ではそういった伝説の練習方法の数少ない一緒に体験してきたメンバーの生き残りで、正直言って、本人がお話しされている練習方法は多少、誇張があったりするのは事実である、しかしながらその誇張を差し引いても、そのトレーニング凄さは、今でも伝説言っても過言ではない。
この手記は自分のその後の仕事につながる様なエピソードを紹介していくつもりなので、ボディビルの伝説に関する内容は、違う機会に書きたいと思う。
元来、案外、人見知りの私はサンプレイ入会後もなかなかサンプレイの中ではなじめなかった、今ではサンプレイのコーチよりも、古株ゆえの会長との関係で、図々しく振舞っていて、会員の皆さんは想像できないと思うが、当初は本当に目立たない会員であった。
そのなじめない状況を一変し、今のようにドップリ、サンプレイとの関係を深めた“事件”があった。
ボディビルコンテスト挑戦!!
ボディビルをやる限りは、コンテストの出場し、大会に参加し、結果を出することが目的である、早速、その頃、学生の大会では最もレベルの高い、関東学生オープンの部に参加することを決め、調整を開始した。
この関東学生オープンの部とは、いまでは存在しないが、学連に所属していない選手が参加できる大会で、あのレジェンドの小沼敏夫さんや北村克己さん、富山耕一さん、須賀幸夫さん、吉野智則さん、渡辺実さん等々、学連の大会よりその当時はレベルが高かった。
初めての減量、元来肌の白い皮膚に何とか少しづつ日焼けを行い、ポーズ練習もまともに行った記憶もないが、なんとか、大会に出るところまで調整ができた、のだと思う、というか、もう記憶にないが、試合の写真の記憶だけあるので、そこそこには仕上げたのだろう。
そして、大会、前日、ヘアスタイルなど、いままでかつて到底、気にしたことがなく、どうしたらよいかわからず、また、こうなったら気合いを入れるつもりで、バリカンで髪の毛を全て刈る。という決断をした。
そう、今で言うスキンヘッドで初めての大会に出場したのだ、いまではボディビルの大会で、スキンヘッドなど珍しくはないが、その当時は周り、関係者、全てが私のスキンヘッドに驚いていた。
結果は、もちろん、初めての大会出場、小生のような凡人が結果を出せるはずはなく、予選落ちのボロボロの結果だった。
そして、その年の関東学生オープンの勝者は北村克己選手のセンセーショナルな優勝だった、とにかく、デカかった。
そのボロボロの敗戦の後、バイト先の先輩が行ってくれた残念会の2次会で、記憶がなくなるまで飲み、スナックのテーブルにうつ伏している中、誰かが歌う、三好鉄製「涙を拭いて」の歌だけが流れていたのだけが記憶に残っている。
試合が終わって、また、サンプレイにトレーニングに通うようになったときに、いままでは全く、親しく話したことのなかった、宮畑会長から突然、声を掛けられて、「今度、試合で坊主頭で試合に出たら、サンプレイ出入り禁止だぞ!」と、あの優しい目でニコニコしながら声を掛けてくれた。
小生の少し変わった気合いの入れ方やその姿勢が、可愛かったのではないか、それ以来、サンプレイと宮畑豊会長との関係はドップリと深くなっていった。
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