- 松田所長に教わった建設技術・工程表の書き方
- 松田所長の教えは徹底した現場回帰、全ての答えは現場にあり
- あれだけ嫌われていた松田所長に守られた自分の仕事
- 松田所長が弟子に伝えたかった花形の「機械工事」、わき役の「電気計装工事」
工程表を書く
初めての工程表
すこしづつ、松田所長が小生の仕事を認めてくれるようになってきたある日、松田所長から、
「海水ポンプの据付と現合(現地合わせ)配管の工程を書いてみろ、」
と初めて工程表を書くことを許してくれた。
これは大変なことで、松田所長というのはどんな小さな工程でも自分で書くという建設現場の人間としての「誇り」のようなものを持っていて、IHIの仮設事務所の小さな工事ですら、自らの手で工程表を書いていた。その松田さんから工程を書いてみろ、と言われたのである、それは嬉しかった。
と同時に、また、それは厳しかった。
合格をもらうまでに何度、書き直したか。
ましてや昔は手書きである。
専用の工程表の紙に鉛筆と消しゴムで書く。
できると松田所長のところにもっていく、すると、瞬く間にコメントが一杯、
「工程には必ず、後工程に対しての接点がある、おまえはその接点がイメージできているか??」、「その工程の期間はどれぐらいの人員でどれぐらいの時間が掛かる??」等々。
この様に、工程に対しての自分が書いた期間の根拠やその工程と工程の接点の根拠等々、完璧に工程表1枚に自分の表現した線1本に対して、全ての考え方をクリアしないと、所長のOKはもらえない。
確かこの時ではなかったが、ある日、工程を書いていた時、「お前はなんでわからないんだ!!」とお叱りとともに蹴り(もちろん軽くだが)までいただくこともあった。
そういう厳しい教育方針である、知っている人は知っているだろうが、今の自分の仕事に対する姿勢ができてしまったのは、完璧にこの人のお陰であろう。
そしてこの話のオチは、最後にようやく、松田所長が、
「よしこれでいい」
と言って所長の承認欄にサインをしてくれ、こっちは「やれやれようやく終わった。。」と安心してたところに、所長が一言、
「じゃあ、なおしとけ。」
と言ってきた。
こっちは承認サインももらっているし、今更、何直すんだ??と不思議がって、恐る恐る、
「松田さん、どこを直すんですか??」
と聞いてみたところ、
「なおすっていうのは、原紙棚に保管しておけってことだよ。。」
と教えてくれた。
松田所長は九州の人で「なおしておけ」とは九州の方言で「保管しておけ」ということで、関東人の小生はそんなことも分からず、そういう彼の一言にもビクビクしていた良い思い出である。
工程表を書く、自分のアイデンティティー
その頃には、松田所長の小生に対する期待や業務は完全に師匠と弟子という関係になっていて、何か彼が疑問や問題点を感じると、小生を呼び、その課題や問題点を調査させ、報告するように命じられるようになってきていた。
しかし、この原点にあったのは、
「全ての答えは現場にあり」
である。
そして、その後は、工程表を書くことも、ほぼ、さまざまな工程表の作成は小生が作成し、そして松田所長がそれを確認するという形になっていた。
最終的にはこの工事の一番のメインの工事である、新中央制御室の更新工事の工程表まで任されるようになった。
この工程を書くために、多分、1週間程度、会議室に資料とともに籠って書いた。
全てのケーブル線長の算出、原単位の策定、結線図のからの端子数の算出、原単位の策定、職人の算出から山積み。
松田所長も、いつも小生が複雑な工程表を書き始めて、会議室を占有するようになっても、黙認してくれるようになり、そして、工程表を任されるようになってくる頃から、松田所長の元、この工事にどっぷりはまっていくようになっていく。
写真は小生が手書きで書いた1Bil USD(約1000億円)プロジェクトのPART手法により書いた工程表。。松田所長の書いた工程表は小生の書くものより遥かに芸術的で美しい。
最近のプロジェクトプランナーはPRIMAVERAやMS プロジェクトで工程表を作ることはできるが、自分のプロジェクトを作り上げたい順番をイメージして描けていない、そのため、必ずプロジェクトスケジュールが「絵にかいた餅」になる。
その後、様々な国際プロジェクトで様々なプランナーの書いたスケジュールを世界各国で見てきたが、一つとして本来の工程表といえるものは一つもなかった。
松田所長のお陰で、小生はその後の数々の海外プロジェクトにおいて、一つも工程遅れを発生せず、終えることができた。
感謝である。
下の写真は言わずと知れた「姫路城」、しかし、北側からみた珍しいビュー。
プロジェクトは機械工事がメインだから機械工事のプロになれ
松田所長の信認を少しづつ得てきていて、また、現場での自分のポジションもよく見えるような状況になった頃、この工事の最大の山場を迎えることになった。
それは客先の新任のT課長(名前は控える)が赴任し、その新任の課長がとんでもない「仕事のできる」人材だったのだ。
このことはIHIの計装設計の体制にも大きく影響し、かつ、その新任T課長の対応で当時のIHIの各部門の部長クラスが多数、現場に常駐するようになり、その対応は毎晩、夜中まで続くようになっていた。
その時、小生は松田所長の組織の下で未だに機械工事を管理する業務であったが、小生の建設部への転籍の当初の目的である、電気計装工事を専門とする人材の育成、かつ、この新中央制御室更新工事担当という名目の目的での転籍から考えると、この新任T課長対応に対する助勢として、プロジェクト部のH部長が松田所長に「Kをこっちに回してほしい」という強い要望をすることは当然の成行であった。
しかし、松田所長は頑としてその要請を断り、松田所長配下からどんな状況・要請があっても、小生を彼の配下から移すことに了承はしなかった。
その後、このことについて、松田さんとも話したのだが、彼曰く、
「Kやん、電気計装工事は工事の主流にはなれないんだよ、お前を電気計装の専門家にはしたくないんだ、だから、主流の機械工事がある限り、プロジェクトの主流である機械工事でおまえを勉強させたい。」
と言ってくれた。
もうこの時には、松田所長は完全に小生を自分の後継者のように考えてくれていて、プロジェクト部門のライン部長の要請に、所長とは言え、役職は課長職である一課長が、小生の建設管理者としての将来のことを考えて断ってくれた。
実際、その後、小生も今までの建設管理経験を振り返って、「電気計装工事の分かる機械工事を専門とする建設所長」というのは本当に大きな財産になっている。
このように松田所長の存在なくしては確実に今の自分はいない。
しかし、その時、H部長は小生に大きく失望したとのことで、数年後に彼が建設部長で、小生の直接の上司になった時に、彼が話してくれたのは、小生が海外工事で何件か現場をまとめるようになるまで、彼は小生を絶対に認めなかったと話していた。
最終的には松田所長の先見で、機械、電気計装工事を含めた、全体工事の管理ができるような建設所長になったことで、H部長も小生を認めてくれるようになったのであろう。
写真はその新中央制御室のある1期設備側と新中央制御室
この工事の思い出は尽きない、その後、担当する工事では、助勢で赴任した工事以外は、責任も重くなってくるので、辛い思い出の比率の方が重くなってくるのだが、この姫路の工事の思い出は、長期間の赴任だが、立場に責任が軽かったせいか、案外、楽しかった思い出が多い
そして、鬼籍に入られた方も多くなってきて、思い出がますます、濃くなってくる。
ここまで紹介した、松田善治所長も数年前に鬼籍に入られ、小生の心強い師匠が亡くなった時には大変、寂しい思いをしたものである。
監督のAさん(あえて、イニシャルも伏せます、やはり、いろいろあります)との現場が終わった後のいろいろな遊びは本当にリフレッシュになった。
特に大震災の前に神戸の摩耶まで、フォーミュラクラブというゴーカートのようなものを定期的に行くことが本当に楽しかった。
しかし、大震災で良く通った、摩耶までの高速が倒れてしまったのを見たときに大変ショックを受けたものである。
そして、やはり強く記憶に残っているのは、その後の自分の工事現場生活の喜びを作った、一日の作業が終わって、日が暮れていき、
「今日も事故なく、安全な一日で終わって、みんなと一緒に帰れる」
という感覚が作られたことである。
これは、オフィスで働いている場合と全く違っている充実感にあふれ、自分が仕事をしているという感覚が本当に研ぎ澄まされ、毎日が充実していた。
このように現場での楽しさということが、この現場で全て経験できた。
そして、自分の人生においても、結婚もこの現場赴任中、長女が生まれたものこの時期、そして、家族3人で初めて暮らしたのもこの現場の赴任先。
また、今でも思い出すのは「平成の米騒動」、生まれたばかりの長女が姫路に来て早々、米が全くなくなり、仕方なく、タイ米を食べた記憶がある。
そして、関西大震災、幸い、この時にには既に2年の赴任を終え、豊洲に帰ってきていたが、松田所長の助勢依頼により、新幹線が使えない中、岡山空港に飛び、姫路に戻り現場に赴任した。
地震時にはパソコンの上の昔のデカいCRTが机から飛び落ちたそうである。
2週間程度の出張だったと記憶するが、その帰りに在来線を使って、神戸に向かい、新幹線に乗って帰ったが、途中、在来線からバスに乗り換え、1駅移動したが、その時に在来線やバスの窓から見えた被害の状況は今でも思い出す。
そして、その後にこのプロジェクトから離れ、豊洲で建設計画を担当することになっていく。
最後に、松田所長以下、五十嵐秀春副所長、福谷さん、南雲さん、佐藤さん、長野さん、諸橋君、宮川さん、皆さんに感謝したい。
写真は家族3人で初めて暮らした白浜の宮のマンション。
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